というのである。
「ご亭主《ていしゅ》も気《き》のどくな。運が悪かったのよ」
 と、男は言った。
「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種《たね》に、しこたませしめるずるい連中《れんちゅう》もあるのだが、おまえさんのご亭主《ていしゅ》ときては、一文にもならないのだからな」
「まったく運が悪い」と男はこのことばをくり返しながら、どろでつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。
「なんでもこれは、請負人《うけおいにん》を相手《あいて》どって裁判所《さいばんしょ》へ持ち出さなければうそだと、おれは勧《すす》めておいたよ」
 男は話のしまいに、こう言った。
「まあ。でも裁判《さいばん》なんということは、ずいぶんお金の要《い》ることでしょう」
「そうだよ。だが勝てばいいさ」
 バルブレンのおっかあは、パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶんたいへんなことだった。道は遠いし、お金がかかる。
 そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに相談《そうだん》した。ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それでぼうさんが代筆《だいひつ》をして、バルブレンのはいっている慈恵《じけい》病院の司祭《しさい》にあてて、手紙を出すことにした。その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主《ていしゅ》が災難《さいなん》を受けた相手《あいて》にかけ合うについて、入費《にゅうひ》のお金を送ってもらいたいというのであった。
 それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、雌牛《めうし》のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。
 いなかで百姓《ひゃくしょう》の仲間《なかま》にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものではなかった。いかほどびんぼうでも、家内《かない》が多くても、ともかくも雌牛《めうし》が飼《か》ってあるあいだ
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