のためにいまの身の上にさしせまっただいじのことは忘《わす》れるくらいであった。
 パリの町の中に深くはいればはいるほど、見るものごとにわたしの幼《おさな》い夢想《むそう》とだんだんへだたるようになった。こおりついたみぞからは、なんともいえないくさいいきれが立っていた。雪と氷がいっしょにとけて固《かた》まったいうす黒いどろが、荷車の輪《わ》にはねとばされて、そこらの小店のガラス戸に厚板《あついた》のようにへばりついていた。確《たし》かにパリはボルドーにもおよばなかった。
 これまで通って来た町に比《くら》べては、だいぶんりっぱな広い町で、いくらかきれいな店もならんだ通りを長いこと歩いて、親方はついと右へ曲がると、急にみすぼらしい町に出た。高い黒い家のならんだまん中に、例《れい》のいやなにおいのするどぶがあった。たくさんある居酒屋《いざかや》の店先で、おおぜいの男女ががやがや言いながら、お酒を飲んでいた。
 町の角には、ルールシーヌ街《まち》と書いた札《ふだ》が打ってあった。
 親方は案内《あんない》を知っているらしくせまい通りにこみ合う往来《おうらい》の人の群《む》れを分けて進んだ。わたしはそのそばに寄《よ》りそって歩いた。
「おい、気をつけて、わたしの姿《すたが》を見失《みうしな》わないように」と親方が注意した。けれどかれの注意は必要《ひつよう》がなかった。なぜといって、わたしはかれの後にくっついて歩いたうえ、おまけにかれの上着のすそをしっかりとおさえていたのであった。
 わたしたちは大きな路地をつっ切って、もう一日じゅう日の光がけっしてもれたことのないような、きたならしい、じめじめした一けんの家にはいった。それはこれまでわたしの見たかぎりのいちばんひどい家であった。
「ガロフォリさんはいるかね」と親方が、ランプの光で、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]をドアにぶら下げていた男にたずねた。
「知らねえや。上がって見て来い」とその男はうなった。「はしごだんのいちはんてっぺんだ。それおまえの鼻っ先に見えてるじゃないか」
「ガロフォリというのは、ルミ、おまえに話した親方だよ。ここが住まいだ」階段《かいだん》を上がりながら親方はこう言った。その階段《かいだん》は厚《あつ》いどろがこちこちに積《つ》もって、ややもするとすべって足を取られそうになった。街《まち》といい、家といい、はしご段
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