たし、権利《けんり》の思想《しそう》をじゅうぶんに持っていたかれは、法律《ほうりつ》にも警察《けいさつ》の規律《きりつ》にも背《そむ》かないかぎりかえって警察から保護《ほご》を受けなければならないはずだと考えた。
 そこで巡査《じゅんさ》が立ちのいてくれと言うと、かれはそれを拒絶《きょぜつ》した。
 もっとも親方はひじょうにていねいであった。親方があまりはげしくおこらないとき、または他人をすこし愚弄《ぐろう》(ばかにする)しかけるときするくせで、まったくかれはそのイタリア風の慇懃《いんぎん》(ばかていねい)を極端《きょくたん》に用《もち》いていた。ただ聞いていると、かれはなにか高貴《こうき》な有力《ゆうりょく》な人物と応対《おうたい》しているように思われたかもしれなかった。
「権力《けんりょく》を代表せられるところの閣下《かっか》よ」とかれは言って、ぼうしをぬいでていねいに巡査《じゅんさ》におじぎをした。「閣下は果《は》たして、右の権力より発動しまするところのご命令《めいれい》をもって、われわれごときあわれむべき旅芸人《たびげいにん》が、公園においていやしき技芸《ぎげい》を演《えん》じますることを禁止《きんし》せられようと言うのでございましょうか」
 巡査《じゅんさ》の答えは、議論《ぎろん》の必要《ひつよう》はない、ただだまってわたしたちは服従《ふくじゅう》すればいいというのであった。
「なるほど」と親方は答えた。「わたくしはただあなたがいかなる権力《けんりょく》によって、このご命令《めいれい》をお発しになったか、それさえ承知《しょうち》いたしますれば、さっそくおおせつけに服従《ふくじゅう》いたしますことを、つつしんで誓言《せいごん》いたしまする」
 この日は巡査《じゅんさ》も背中《せなか》を向けて行ってしまった。親方はぼうしを手に持ってこしを曲げたまま、にやにやしながら、旗《はた》を巻《ま》いて退《しりぞ》く敵《てき》に向かって敬礼《けいれい》した。
 けれどその翌日《よくじつ》も、巡査はまたやって来た。そうしてわたしたちの芝居小屋《しばいごや》の囲《かこ》いのなわをとびこえて、興行《こうぎょう》なかばにかけこんで来た。
「この犬どもに口輪《くちわ》をはめんか」と、かれはあらあらしく親方に向かって言った。
「犬に口輪をはめろとおっしゃるのでございますか」
「それは
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