夜を過《す》ごした。
「そうだ、この村だったよ」とヴィタリス親方が言った。「しかもこの同じ宿屋だったかもしれないが、のちに何万という軍勢《ぐんぜい》を率《ひき》いる大将《たいしょう》がここで生まれたのだ。初《はじ》めはうまやのこぞうから身を起こして、公爵《こうしゃく》がなり、のちには王さまになった。名前をミュラーと言った。みんながその人を英雄《えいゆう》と呼《よ》んで、この村をもその名前で呼ぶことになった。わたしはその男を知っていた。たびたびいっしょに話をしたこともあった」
わたしもさすがにことばをはさまずにはいられなかった。
「うまやのこぞうだったときにですか」
「いいや」と親方は笑《わら》いながら答えた。「もう王さまだったじぶんにだよ。今度|初《はじ》めてわたしはこの地方にやって来たのだ。わたしはその男が王さまだったナポリの宮殿《きゅうでん》で知り合いになったのだ」
「あなたは王さまと知り合いなのですか」
わたしのこういった調子は少しこっけいであったとみえて、親方はさもゆかいそうに笑《わら》いだした。
わたしたちはうまやの戸の前のこしかけにこしをかけて、昼間の太陽のぬくもりのまだ残《のこ》っているかべに背中《せなか》をおしつけていた。われわれの頭の上におっかぶさっている大きないちじくの木の中で夕ぜみが鳴いていた。母屋《おもや》の屋根の上には、いま出たばかりの満月《まんげつ》が静《しず》かに青空に上がっていた。その日は昼間こげるように暑かったので、それがいっそう心持ちよく思われた。
「おまえ、とこにはいりたいか」と親方はたずねた。「それともミュラー王の話でもしてもらいたいと思うか」
「ああ、どうぞそのお話をしてください」
そこで親方はわたしとこしかけの上にいるあいだ、長物語をしてくれた。親方が話をしているうちに、だんだん青白い月の光がななめにさしこんできた。わたしはむちゅうになって耳を立てた。両方の目をすえてじっと親方の顔を見ていた。
わたしはまえにこんなむかし物語などを聞いたことがなかった。だれがそんな話をして聞かせよう。バルブレンのおっかあはとても話すわけがない。かの女はそんな話は少しも知らなかった。かの女はシャヴァノンで生まれて、たぶんはそこで死ぬのだろう。かの女の心は目で見るかぎりをこえて先へは行かなかった。それもアンドゥーズ山の頂《いただき》か
前へ
次へ
全160ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング