々を旅行してあるくお話です。だから、犬、猿、雉のお供を連れて、金銀、瑠璃《るり》、瑪瑙《めなう》の寶物を求めて鬼ヶ島へ冒險の旅に出る日本の桃太郎の昔話を、平和な心の世界の探檢の、それも子供たちの夢で見るお話にしたやうなものだともいはれませう。つづく「いひなづけ、又の名青い鳥のえらぶもの」の物語も、やはり、少年になつたチルチルが、こんども「光」の案内で、そのうちどれかが未來のお嫁さんになるはずの少女を七人もお供にして、遠い昔の先祖たちや、これから生れて來る子供たちの國をたづねる、これもやはりクリスマスの前の晩の夢物語で、人間の世は自分一代のものではなく、先祖から子孫へと果《は》てしなくつづいてゐるものだから、そのたいせつな血すぢをつなぐ「母」になる人を、自分一人の氣まぐれや好みだけでえらんではならないといふことを作者はここでも話してゐるのです。
さて、「青い鳥」といふのはなんでせうか。「青」は昔から人間だけの持つ靜かな、ふかい心の智慧《ちゑ》の色だとしてあります。人間は肉の目だけで物を見てゐると、富だとか、名譽だとか、權力だとか、とかくうはべのはな/″\しいことにひかれて、それを世のなかの一ばんの幸福だと思ひたがるものですが、一そう明るい、心の智慧の目があいてゐたら、ほんたうの高い、ふかい幸福は、實はつい手近な自分の身のまはりにあることがわかるだらう、身はまづしく、いやしくとも、人をうらやまずねたまず、つつましい正直な心で世のなかを送る者の家にこそまことの幸福はあるのだ、といふのが作者の考へです。そこで、「青い鳥」といふのは、さういふ心の智慧だけが感じるごくありふれた毎日の生活の幸福を形《かたち》にあらはして見せたものだといへます。
もう一つ、この物語の「少年の卷」にも出て來ますが、ぐわんこで意地のわるい「運命《うんめい》」といふものが、人間の一生につきまとつてはなれません。人間の世のなかはちよつと見ると平和のやうで、實は目に見えないさま/″\の敵が、たとへば天災だとか、病氣だとか、死だとか、人間同士の、または人間と動物や植物や宇宙《うちう》の萬物との間の戰爭だとか、人間をすこしの間も靜かにしておかない敵があつて、ゆだんなく人間はこれとたたかつてゆかなければなりません、それを一口にいへば「運命」といふ、やつかいなお供に始終引きずられて行つてゐるやうなものですが、幸
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