絵を形造っているんだ。僕はこの写真というもんに溺れ切てしまった自分自身を、却ってトテモ幸福なやつだと思っているよ」
 そう呟くようにいっている水木の蒼白い顔は、赤燈の光りを吸って、脳溢血患者のような、無気味な色になって闇に浮出し、あの、真赤な脣はここでは寧ろ緑色にさえ見えるのだった。
 ――だが、そうして寺田も、この現像の操作を見ている中、あの滑々《すべすべ》とした乾版の片隅に、ぽつんと薄黒い汚点《しみ》が浮くと急にそれが、乾版一杯に拡がって、不思議な映像を造ってゆく時の、あの何ともいえない期待に、強い魅力を感じ、幾枚かの現像を手伝っている中に、彼も何時か水木と同じように写真によって始めて、胸の引きしめられるような、陶酔感を覚えて来るのだった……。
 やっと現像が一通り終ると、今度は焼付けをする筈なのだが、まだ乾版が水で濡れているので、一先ず一服しよう、と先刻《さっき》洵吉が蒼くなって驚いたあの異様な引伸し写真が壁一面に貼ってある部屋に出た。
 あの真暗な闇の中に喘ぐ、赤燈の雰囲気は、如何にも弱々しいものだったけれど、それはタッタあれだけの時間の中に寺田に未知の世界を知らせ、そして、洵吉自身の気持を急廻転させる妖しい力を持っていた。
 寺田はもう微塵も、それらの妖しい写真に、圧力を感じなかった。いや寧ろ、その悪夢のように繰りひろげられた、醜悪な写真が眼にはいると、足早に近寄り、厭《あ》かず沁々《しみじみ》と見詰めるのであった。
 その肌は尨大に拡大されて、一つ一つの毛穴が、まるで月面の天体写真を見るようであり、又、それからむくむくと生え上ったうぶ[#「うぶ」に傍点]毛が、或るものは聳《そび》え、或るものは肌にからみ又或るものはその先が二股に分かれているのが、がらり[#「がらり」に傍点]と性格の変って仕舞ったような洵吉には、何故か、訳のわからぬ嬉しさを感じさせるのだ。
 彼はもう水木のことも忘れ、壁に貼られた写真の高さにつれて、伸び上ったり、屈み込んだりして、なめ[#「なめ」に傍点]るような観賞をほしいまま[#「ほしいまま」に傍点]にして行くうち、洵吉は、いよいよこれらの写真から音もなく匍《は》い出る妖しい波動に、シッカリと身動きも出来ぬほど固く、心を奪われてしまった。
 それは全く、素晴らしい芸術の極地のように思われた。
 ずたずたに切られ、夢のように拡大された頸、乳、臍《へそ》の中には、山も川も、森も谷も、そして風の音も、総てが油然《ゆうぜん》と混和されて、ぞよぞよと息づいているのだ。
 ――洵吉の烈しい動悸が、シーンとした部屋のうちにひびくと、ぽつんと隅の方で、黙って寺田の様子を見ていた水木は初めて薄く笑いながら、話しかけた。

       四

「寺田君、バカに気に入ったようだな……。どうだい今日はもう遅いから、泊って行かないか、ここは僕一人だから気兼ねなんかないよ」
 水木にそういわれ、はじめて、気がついて硝子越しに庭を見ると、妙に白けた月光の中にはもうねっとりとした闇が澱《よど》んで、真黒な風が、硝子戸の外を、蹌踉《よろめい》ていた。
「とにかく、もう遅いよ、よかったら叔父さんのところを引払って、ここで手伝ってくれないか、そうしたまえ、君も、いつまで叔父さんのところへいるつもりでもないんだろう、――写真もすきらしいし、恰度いいじゃないか」
 そういって、水木は、真赤な唇を薄く結び、返事をせかすように、洵吉の顔を見詰めるのだった。
(叔父さん……)
 その言葉を聞くと同時に、洵吉の眼の前には、あの鬱然とした長屋の片隅、赤ン坊の泣き声、赤茶けて妙に足にこびる[#「こびる」に傍点]ような畳、そして切込まれたような陰影を持った叔父の顔……が、連絡もなく現われては散った。
「ウン! 是非助手にしてくれたまえ……」
 洵吉は、水木の言葉に飛附くように答えた。あの疲切った叔父のところで、気兼ねをしながら、世話になるより、この金持の水木の家で素晴らしく魅力のある写真の手伝をして暮した方が、どんなにまし[#「まし」に傍点]だか知れないと思われた。
 こう決心した洵吉は、到頭その夜は水木のところへ泊ると翌日は大急ぎで叔父のところへ帰り、訳を話して少しばかりの荷物を受取ると、それからは、すっかり水木の家へ腰をすえて仕舞い、二人がかりで奇怪な「影」の創造に没頭してしまったのだ。
 それは事実、今までの洵吉には、想像もつかなかったほど愉快なその日その日であった。
 水木と洵吉とは、蛇が蛙を呑み込む瞬間を、大写しにして喜んだり、或る時は「絞首台の死刑囚」と題する写真を撮る為に、洵吉が芝居染みた扮装をして、陰惨なバックの前で、天井から吊るされた縄に、首を絞《くく》ってぶら下り――莫迦気たことには、光線の加減で、シャッターを長くした為、も少しで洵吉は本当に死んでしまうところだった――けれどその代り、この写真を焼付けて見ると、正《まさ》に死に墜ちる瞬間の、物凄い形相が、画面からぞわぞわと滲出《にじみで》て、思わずゾッとしたものが、背筋を駛《はし》るほどの出来栄えだった。
「すごいぞ、大成功……」
 そういいながら、水木と洵吉とは、まだ濡れている写真を奪合うようにして覗きみては、手を拍《う》って喜び、部屋の中を踊廻っていた。
 こうした異様な写真を、彼等二人は次から次へと、倦かずに作って、もう今ではその数も、非常なものとなって来た。
 或る日、水木はそれらを整理しながら、こんなことをいうのだった。
「ねえ、寺田君、こんな素晴らしい写真を、僕たち二人しか知らないというのは惜しいな。一度何処かで、とても公開することは出来ないだろうけれど……会員組織ででもいいから、展覧会をやってみたいね、きっと驚くぜ、中には卒倒する奴が出るかも知れないぜ――」
 無論、洵吉も、大賛成だった。
(中には卒倒する奴が出るかも知れないぜ――)
 その言葉が、彼の胸の底の虚栄心をぶるぶる顫わすのだ。
「是非やろう。何時がいいんだ――」
 彼はもう急《せき》込んで、水木の顔を覗込んだ。だが水木は、如何にも考《かんがえ》深そうに、
「いやすぐは出来ないよ。僕には前から考えている一生一代の大願目があるんだ、それを撮ったら、展覧会をやろう……」
「何んだい、それは」
「一寸、今はいえないんだ……けれど、それを撮りたいばかりに、今迄君に手伝って貰ったようなもんだよ」
 そんなことをいわれると洵吉は余計訊きたくてたまらなかった。
「一体何を撮るんだい、無論僕はどんなことでも手伝うけど」
 しかし、水木は、もう返事もしないで、写真の整理に夢中になっていた。
 洵吉も、水木の横顔にひくひくと動く、(蒼白い、重大な決意)に押されて、口を噤《つぐ》んでしまった。

       五

 二三日して、丁度乾版がすっかり切れてしまったので、洵吉は水木に頼まれて、駅の近くの写真材料店まで使いに出た。
 そして、色々な乾版を買込んで、帰途についたが、なんだか水木の家で、変ったことが起ったような予感がしてならなかった。彼は、何時とはなく足を早めていた。
 黒い柔かい土を、足早に踏んで、水木の家が、視界にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]浮ぶところまで来、そして、道を曲った瞬間、あの採光用のため、ガラス張りになった屋根の半面が、きらり[#「きらり」に傍点]と光った。
(変ったことがなければいいが……)
 ガラスの光るのは、ちょいちょい見るのだが、今日に限って洵吉は、フトそんな気持に襲われた。尚も足を早めて、門をくぐり、玄関のドアーを引いた途端、
「おやっ……」
 と、到頭呟いてしまった。矢張、彼の予感通り、留守中何か起ったに違いないのだ。
 玄関の石畳には、水木の生活とは凡そ不釣合な地下足袋が投出されるように、脱がれて、黄金《きん》色のコハゼが、薄暗い玄関の中に、ずるそうに並んで光っていた。
 洵吉は急いで下駄をぬぐと、
「水木君、水木君……」
 と大きな声で呼びながら、家の中をうろうろと捜してみたが、その呼声は、あたりの壁にシーンと吸込まれて、水木の返事はなかった。
 彼は、方々捜して、屋根裏(そこは、天井との間が広くとってあって、あの屋根のガラス張りになっているスタジオだった)のドアーを、ぐい[#「ぐい」に傍点]と開けて
(水……)
 水木の名を呼ぼうとして、首を突っ込んだ、と同時に、あわてて、彼を制する水木の姿が眼に這入ったので、危うく、その声を呑んでしまった。
 だが、洵吉にも、すぐそのわけ[#「わけ」に傍点]が解った。水木が、あわてて制したのも、無理ではなかった、水木の足元には薄い襦袢《じゅばん》一枚の若い、健康そうな娘が、のびのびと寝ているではないか……。
 洵吉は、一寸、くすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]気持になって、忍び足に水木の傍に寄ると、そっと、彼の肩をつついた。
「誰だい、君に女の友達が来ているとはしらなかった、……だけど、よく寝てるじゃないか」
「はッ、はッ、はッ」
 水木はいきなり[#「いきなり」に傍点]思いきった笑声で、部屋の空気を顫わせた。それは如何にも狂人のように不規則な、馬鹿高い哄笑だったので、洵吉は、思わずギクンとしながら、この女が眼を覚しはしないか、と心配したほどだった。
「寺田君、ヘンに誤解するなよ、この女は今日、タッタ今、逢ったばかりなんだぜ。……よく見ろよ、死んでるんだ――」
 洵吉は、その思いもかけぬ言葉と、緊張に歪んだ水木の奇怪な容貌に押されて、も少しで買って来たばかりの乾版を、取り落してしまうところだった。
「驚かなくてもいいよ。この女は行商の女さ、……生憎《あいにく》君がいなかったんで、一人でやっちまったよ」
 そういわれた時、彼は、あの玄関にあった地下足袋のコハゼを思い出した。
 ――それにしても恐ろしいのは、水木の巧妙な話術と、不思議に人を引きつける彼の魅力だ。洵吉の知っているだけでも大分前のことだが、あの踊子の花形である小川鳥子を、たった二日三日口説いて、全裸体の写真を撮らせ、今又この行商の女を巧みに誘上《おびきあ》げて(まさか玄関で殺《や》ったのではないだろう)殺してしまったのだ。
 いや現に、洵吉自身ですら、タッタ一度、二三時間の訪問で、すっかり[#「すっかり」に傍点]水木の捕虜《とりこ》となり、彼の意のままに、奇怪な写真の創造に欣々と、従う一個の傀儡《かいらい》となってしまっているではないか……。
 ぼんやりと彳《たたず》んだ洵吉は、考えるともなく、そんなことを思浮べてみた。けれど、
「さ、寺田君手伝ってくれたまえ……」
 そう耳元でいう水木の声に、ハッと気がつくと、もう今までの考えは、煙のように、どこへともなく揮発して、
「玄関にあんな足袋があると変だから、片づけなきゃいけないね……」
 そんな悪智慧をすら浮べる、彼だったのだ。

       六

 それから洵吉は、水木のいう儘に手伝ってその投出された行商娘の、襦袢まで剥ぎとってしまうと、スタジオの隣の物置にあった、大きな硝子箱(寺田は、前からこんなものがあるのは知っていたが、何に使うのか見当もつかなかった)を選び出して、彼女の死を、まるでこわれ[#「こわれ」に傍点]物でも扱うように、そっとその中に寝かした。
 そして蓋の硝子を閉め、縁《へり》をパテで詰めてしまうと、もう一遍、つくづくと彼女の、赤裸な姿体を見直してみた。
 硝子の箱の中に、のびのびと寝かされた彼女の様子は、まるで人魚の氷漬のように見事なものであった。ふさふさとした黒髪は、枕元に匐《はい》廻り、まだ色褪せぬ唇が、薄く開いて白い歯並の覗いているのが、如何にも楽しい夢をみているように思わせ、体全体の艶《つや》を含んだ小麦色の皮膚は、むっちり[#「むっちり」に傍点]として弾々たる健康を、惜気もなく振撒いているのだった。
 洵吉は、何故とはなく、ホッと息を漏らして、水木の方を振返ってみた。水木は彼の溜息をきいたのか、にやにやと笑いながら、
「どうだい、素晴らしいだろう、僕もはじめ(今日は――)と這入って来た時は、思
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