あんなにも信頼していた数字、日附に、無慙《むざん》にも裏切られた鷲尾老人が、遂に卒倒してしまったのだ。
 私も最早日附どころではなかった。木美子と一緒に水をのませたり、医者を迎えに走ったり、すっかり慌てふためいてしまったのである。
     ×          ×
 鷲尾老人は、現在東京の西部にあるA精神病院に収容されている。
「つい一ト月ばかり前までは、ほんとにいい叔父様だったのに……」
 木美子が、淋しげに私に囁くのである。
「叔父様は、あのビルの管理人を、もうずいぶん長いことしていたのです。それがつい一ト月ほど前に、下水道のなかの地割れの地下線が出ているのを見つけて、危いから片づけようとして触ったもんですから感電して刎《は》ね飛ばされ、大変な騒ぎをして――、その時頭の打どころが悪かったせいか、それ以来すっかり電気気違いになってしまったの、そして木美子の神経は白金《プラチナ》で出来ているとか、(震災で両親を亡くしてから、ずうっとあの叔父様のお世話になっていたのは本当なんですけど)だからこれからは右手と右足とを一緒に出すようにして歩け、とか、こんどはこの部屋をバーにして助手を集めてやるんじゃ、とか、とても変なことをいい出して来たのよ。木美子、一人でとても心配してたんですけど、そして、なんとかして癒《なお》してあげたいと無理いうの我慢してたんですけど……、それにあんなところを研究室だなんていって電気を引込んだりして又危いことしやしないか、今度そんなことしたら、今まで木美子が叔父様の代りに働いて、どうにか居られたこのビルからも断られやしないか……なんて、とても心配だったの。そうかといってお世話になった叔父様が、頭が変になったからって私一人が勝手なことをするのも嫌だったし……、でも、でもお陰様で病院に入れて頂いて、ほんとに安心しましたわ。頭の具合の悪くなった叔父様に、電気をいじらせて置いたのは、却て不可《いけ》ないことでしたわね、なぜもっと早く病院のこと考えつかなかったかしら……」
 彼女は、やっと安心したように、美しい微笑をもらした、私も、思わず微笑みかえして、
「あの画はどうしました……」
「あれはつい二三ヶ月前に夜店で買ったものなのよ。それが、頭が狂ってから、急に自分で日附など入れたりして珍重がっていられたの……、でも河井さん、あんな六ヶ敷しいこと言われた
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