日本汽船が通りますから間違いなく……」
中野ソックリの男はそういって立上ると、二人に一揖《いちゆう》して海に飛込み、そのまま抜手を切って泳ぎ去ってしまった。
中野は、慌ててあたりを見廻した。しかし、いずれを見ても、渺々満々たる大海原の真只中で、とても泳ぎ切れるとは思えなかった。
(そうだ、人工蜃気楼にかくされた日章島が、このすぐ近くにあるんだ……)
と気づいた。しかし、いかに瞳を凝《こ》らして見ても、遂にそれは見わけられなかった。
――思って見れば、長い悪夢のようであった。だが、美しい慶子が眼の前で微笑んでいるのだから決して夢ではない。
水平線に、ぽつんと見えて来た汽船が、やがてこの大洋の中の漂流ボートを見つけたのであろう。汽笛を鳴らしながら近づいて来た。
中野は、一生懸命に、彼女とともに手をふりながら、あの日章島では、この自分とソックリの男たちが、慶子ソックリの女たちと共に、生活し、恋愛しているのかと思うと、ふと、もう一遍あたりを見廻したい気持に襲われた。そっと自分の腿を抓《つね》って
(自分は本物だが、この慶子は、果して本物であろうか――?)
と――。
[#地付き](「ユーモアクラブ」昭和十四年十月号)
底本:「火星の魔術師」国書刊行会
1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房
1942(昭和17)年発行
初出:「ユーモアクラブ」
1939(昭和14)年10月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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