無い筈だ……それは足の指紋だもの。どうだ、実に素晴らしい。
 ナマジ指紋(?)あるが為に、この事件は迷宮入りになって仕舞うに違いない。如何にも面白い――と同時に日本的なトリックだ、外国のように沓下を穿《は》き、靴を穿《は》いていたんではこんなトリックはなかなか現われまい……。
『巨大な指紋を遺《のこ》して犯人蒸発! 推察するに相当大男ならん――』などという新聞紙のセンセイショナルなタイトルまでもう頭の中にちかちかとひらめくのでした。
(面白い、殺《や》ってやれ)
 秀三郎は、喫《す》いかけたタバコをポンと地下室の向うに抛って、薄暗の中にポーッと赤い火の灯《とぼ》るのを見乍ら、卓子に手をついて、ウン、と寝椅子から起き上った時でした。
(アッ――)
 景岡秀三郎は、思わず愕然としたのです。卓子についた手の指を御覧なさい、その指の先は、てんでばらばらで、とても足の指のように揃っていません。ソレニ、一緒に平面上に五本の指の先きを同時に押すことが出来ないのです。四本の指の先きを、どうにか揃えて押すと、親指はハラを押して仕舞う――。バカバカしいようだが、重大なことです、と同時にそれに、いまの今まで気がつかなかった――のです。
 こんなことでは、まだ他《ほか》にどんなミスがあるか、知れないぞ……。
      ×
 景岡秀三郎は、もうすっかり殺人がイヤになって仕舞いました。熱し易い一方、とても冷め易いのです。考えて見れば何もセッパ詰った訳でもなし……こうなると彼のぐずぐずの心は二度と振い立たないのでした。(こんなトリックを思いついたばかりに、却って身を滅ぼすところだった――)
 秀三郎は、又ごろんと寝椅子にころがると、チェリーの缶に手を差しのべたのでした。

      四

 頭の上の浴槽の中には五六人の女たちが、立ったり屈《かが》んだりして、いい気持そうに浴《ゆあみ》しています。横の腰掛けに腰をかけている女のお尻が、お供餅の様に尨大で、よく見ると月世界の表面のように、ポツポツの凹凸があったり……、銅像を下から覗《のぞい》た時のように妙に背丈《せい》の高さの判別がつかなかったり……、時々指環を篏《は》めた手が、腿の辺まで下りて来て、ぼそぼそと泡を立て乍ら掻いたり……。そしてそれらの手の間○○○、○○○を白い手拭がふらふらと、又、ひらひらと、オットセイのように泳ぎ廻るのでした。
 景岡秀三郎は、この方がいい――というように、頸を振って口の中にはいったチェリーの粉をペッペッと排《は》き乍ら、狂いそうなウレシサ、とてもたまらないタノシサ――を感じていました。



底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
   2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵文学」探偵文学社
   1935(昭和10)年3月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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