溜めただけのことだ」
「へえ、大変な事業ですね、何かよっぽどの研究でもされているんですか」
「ふむ――」
その男は、もう一度川島の顔を疑《うたぐ》るような眼つきで見廻したけれど、しかしそれは彼の微笑に押しかえされてしまった。
そして無意味に二三度頷くと
「君に果してこの画期的な事業が呑込めるかどうかはわからん、が、興味だけは持てるに違いない――、つまり其処にいる洋子に関することだからね」
そう真正面《まとも》にいわれた川島は、又あわてて笑いを浮べたのだが、それは片頬が纔《わず》かに顫えただけの、我れながら卑屈なものであった。そして、照れたように後の洋子を振りかえって見ると、彼女は、まださっきのままに舳先に腰をおろしてい、真黒な瞳《め》をあげて、川島の汗の泌出た背中をジッと見詰めていたようである。
「ふむ、尠くとも君は悪い人間ではないらしい、信用しよう、いや歓迎しよう、ぼくは何も自分独りでこの素晴らしい新しい世界を独占しようとは思っておらんのだからね、というよりか君のような青年に、大いに語りたいのだ、年をとった者は駄目だ、年をとった者は何んでも自分の常識の中でしか行動しない、自分の常識以上のものは何事によらず変った眼で見ようとする、ぼくが此処で変った生活をしている理由をいって聞かせても、テンから信用しようとはしないのだからね、――けれど、君はそれを聞いてくれるだろう?」
胡麻塩の男は、その風貌に似合わぬ若々しい言葉と声で話し出した。その話しぶりから察すれば、この男は前にも誰かに自分の変った謀《たくら》みについて語って、全く相手にされなかった不満さを持っているらしい。
しかし川島は、真面目に頷いた。この男がともかく谷間を堰止めてこれだけの沼を造ったという奇妙な仕事も、傍らにいる美しい洋子に関することならば聞いて決して悔いないように思われた。寧ろ自分の方から聞き訊ねたいくらいであった。
此処ではじめて初対面らしい挨拶を交して、川島はこの男が吉見という名であることだけはわかった。そしてその言葉つきからこの辺りの者ではなく、関東――というよりも東京に若い時分を送ったのであろうということも、想像がついた。
吉見は、しばらく眼を伏せていた。それは何からいい出そうかと迷っているようにも見えた。
が、間もなくその太い静脈の絡みついた手を挙げると
「ともかく、あれを見た
前へ
次へ
全14ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング