手段には相違ない。然しながら問題は然う云ふ事を説いて果して啓導の目的が達せらるゝか否かといふにある。少くとも弥次馬が運動会でチヤンピオンを後援するが如く、無責任にヤレ/\と騒ぐといふ事が適当な方法かどうか。少くとも最良の方法かどうかと云ふ事は問題である。今日の時代は明治初年の時代ではない。況んや明治以前の時代では断じてない。遠大の志望を持ての、国家的理想を体認して志を立てろのと抽象的の議論を吹かけてそれで青年が振ひ起つた時代もあれば、そんな事を聞いて之を鼻であしらう時代もある。斯う云ふ重大な問題を鼻であしらふのが即ち今日の青年の堕落であるといへばそれ迄であるけれども、兎に角時代の相違は之を認めなければならない。此時代の相違を認識することなくして、昔流の嗾《け》しかけ方針では今日の青年は恐らく断じて動くまい。
今日の警察の規則では道路に放尿すべからずと戒めて居る。而して此広い東京の市中に便所らしい辻便所は殆んどないといつてもよい。而かも日進月歩の教育は、吾人に教ゆるに極端に我慢をすると膀胱が破裂する危険があることを以てする。而して先輩は偶々此警察禁令を犯すものあるを見て、今日の青年には忍耐力がない、我々の若い時は三日も四日も小便を堪へたやうな事を云ふ。彼等の青年時代には路傍の放尿は法の禁ずる所ではなかつた。今日衛生上の考から之を以て法禁とする以上、彼等先輩は先づ沢山の辻便所を作る事に骨を折らねばならない。時代の変遷に応ずる各般の施設を怠つて昔通りの激励鞭撻を加ふるのみでは、更に最新の教育によつて自我の意識の段々に発達して居る今日の青年は承知しない。先輩諸君の常に敬服して居る独逸などでは二三丁置きに、中で弁当を開いて喰べてもよい程の立派の辻便所を拵《こしら》へ、而かも尚特に夜間に限り、車道に向つて放尿するものは之を大目に見るといふ習慣がある。之れ丈けの念の入つた手続を尽した上で、初めて放尿の禁を説くべきである。斯くても其禁を犯すものあれば、其自制力の乏しきを罵るべきである。我国に果して之れ丈けの設備があるか。設備なくして法の励行の苛察に亘るの甚だしきは、夜場末の暗がりで止むを得ず放尿しても厳しく法に問はるゝもの少からざるを見ても分る。
遠大の志望を抱けとか、国家的奉公の念を熾《さか》んにせよとかいふ議論の一面は、兎も角も国民に向つて多大の犠牲を要求するの声である。今日の教育は殊に実用的科学を重んじて、先輩初め宗教道徳を蔑視する。今日の教育は、当さに其子弟をして個人的ならしめざるを得ざるが故に、先輩の要求と彼等青年に与ふる教育とは確かに其効果に於て一致しない。教育の結果東の方に奔《はし》らしめて置きながら、西の方に行かないのが悪いと力瘤を入れて説いても、それがどれ丈けの薬になるか、且又社会の制度の立て方によつては、人々をして甘んじて犠牲を払はしめ得る場合と、容易に犠牲を払はしめ得ざる場合とある。此二つの場合の分るゝ最も主要なるものは国民銘々の生活の保障の有無であらう。例へば明治以前の封建時代に於ては、家に定れる封禄あり、自分一身を犠牲に供する事は概して妻子眷族の生活の道を絶つ所以にあらざるのみならず、場合によつては家門の誉、子孫繁栄の基となることもある。固より此考を意識して国家の為めに命を捨てるといふのではない。時代の背景が自ら当時の役者をして、一死を鴻毛の軽きに比せしめ得たのである。斯う云ふ時代には遠大の志望を持ての、国家の為めに奉公しろのと云へば、国民が直ぐ其声に感応して何等之を妨ぐる個人的社会的の煩累を感じない。我国の忠君愛国の念の強かつたのは単に之のみによるのではないけれども、確かに数〔百〕年来封建的太平の時代を経過したといふ事が時勢の一変した今日まで其余徳を流して、我々に犠牲奉公の念を伝へて居るのである。然しながら今日は時代が全く一変して居る。見よ我々に何の生活上の保障があるか。今日の時代は貧富の懸隔を甚しからしめて、中等階級の立脚地を段々に撹乱して居る。大多数の人は一定の家産をすら持つて居ない。妻子眷族の生活は繋つて家長一人の生命にある。それも昔のやうに数十百年来住み馴れた故郷に定住して居るのなら親族故旧の厄介になるといふ見込もあるけれども、北海道のものが九州のものを娶《めと》つて満洲で奉職をして居るといふやうな今日の時代では、親族といふも名ばかりで何等精神的の親みがないから、亭主が死んだからとて、妻君が其子供を引連れて亭主の親族故旧に頼りやうがない。斯う云ふ時代には如何に犠牲奉公の徳を高唱しても、顧みて妻子眷族の窮を思ふ時に、果して其決心が鈍る所なきを得やうか。否な今日の世の中は妻子眷族は扨て置き、自分一人の生活にすら追はれて居るものが多い。斯くて今日の青年が生命も惜しい、金も欲しいと云ふのを、無理と見る事が出来や
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
吉野 作造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング