する所なり。而も是等のこと一として容易に好果を収め得たるは無かりき。目を著くる所独早くして時運は未だ到らず、常に保守姑息の徒の多数を頼みて嫉視妨害するあり。また無能にして漫罵詆笑を事とする徒の頻りに投機者流を以て父及び父の同志者を呼ぶあり。此間に処するの苦心は如何ばかりぞ。寺は寺格の高きにかかはらず、無檀の古刹なれば、些の資財あるにあらず、清廉無欲にして極端に公益をのみ思ふ急進空想の人なる父は、万余の債を負ひて、明治十二年堂宇地所を挙げて競売に附せられつ。年頃経営せる所も概ね失敗に終りぬ。ただ円山の鉱泉場のみは今も面かげを残せど、早く他人の手に移りて、その実質も父が営める初とはいたく異れり。さはれ父が京都に於ける公共事業に絶縁しつる後も、新思想の有力者つぎつぎに起りて、我国の新事業は常に京都府民によりて先鞭を著けらるるの観ありしは、時運の到ると共に他人に由りて父の志の大成せられつるとも謂ふべきか。明治十三年、再び法衣を著けて西本願寺の役僧となり、同四月、鹿児島本願寺出張所の顧問として派遣せられ、県下の布教に従事す。翌年県知事渡邊千秋氏と謀り、戦後の窮困せる士族に新業を授けんとし、基金として西本願寺より参万円を寄附せしめ、翌十六年鹿児島興業館を創設するに到りしが、そは今も現存せり。十四年以後、大隅国加治木説教場主任を兼ね、布教の傍、鉱業、養蚕業、西洋葡萄及び楮の栽培等を奨励し、楮と葡萄とは苗木を東京より取寄せて寺内に移植し、無料を以て需要者に頒てり。また士族の子弟の為に儒書及び舎密学を講じ、各村の公共事業費を作る為に頼母子講を設くるなど、施設する所すくなからず。十七年夏、医の薬物の分量を誤りしに由りて大患を得、京都にある子大圓の来り迎へて切に東帰を勧むるに遇ひ、少しく癒えて後、職を辞して京都に帰れり。翌十八年、本願寺の支院、愛宕郡一乗寺村養源寺に隠栖し、爾後また世事に与らず、念仏と詠歌とを以て優遊自適し、稀に後進の為に国典を講ずるのみ。明治二十七年、寺務を見るを厭ひて愛宕郡高野村に僑居し、同二十九年の冬、洛東歌の中山なる清閑寺の幽静を愛でて、そこに移れり。同三十年の冬、周防徳山なる子照幢のもとに遊び、翌三十一年六月より病を得、八月十七日午前三時に身まかり給ひき。享年七十六。遺骨は京都西大谷なる妻初枝の墓に合せて葬れり。
一、父の幼名は詳ならず。法名は禮嚴。雅号を尚絅、
前へ 次へ
全40ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 礼厳 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング