く西洋の新智識を布くべしとなし、率先して洋服を著け、神戸居留の外人に交りて舎密(物理、化学)の学を研究せしが、明石博高氏と共に京都府庁に舎密局を設くるに尽力し、局の嘱托となり、府下の諸鉱山を巡囘zして鉱石の分析を試みぬ。また四男巖をしてフルベツキ博士に就き洋語を学ばしめ、神戸の外人某に就きて西洋の染色術をも学ばしめつ。また窮民をして巻煙草を巻かしめ、鹿子絞りを纈らしめ、また各郡を遊説して養蚕と製茶とを奨励せり。是等の事、父の性癖として必ず自ら実験するを常とせしかば、わが願成寺の宅地二町歩を開いて桑樹と茶とを栽培し、母と共に傭役の男女を督して養蚕製茶の事に従へり。また母及び兄達が暇あれば煙草を巻き、鹿子を纈り、或は京人形の製造に従へるさま、わが六七歳頃の記憶に存せり。父はまた明治四年より病院の創立に志し、伊藤貫宗、稻葉宙方、佐佐間雲巖諸氏と共に、京都府下に於る各宗の寺院を勧誘して出資せしめ、明治六年十一月一日に到りて英国の医師を主任とし開業式を行へり。現に存する所の府立療病院是なり。療病院の名もまた父の命ずる所なりと言ふ。明治四年の春、姫路藩に於て神葬祭を行ふ布達を出だしけるに、両本願寺の信徒数万蜂起して騒擾せしかば、藩庁の乞により、父は西本願寺の使僧として出張し、四月より七月に亘りて各地を巡演し、民心を鎮定すると共に、藩庁と協議して神葬祭を延期せしめたり。明治五年一月、病院の出資勧誘のため南山城を経て丹波に入りしに、各所の穢多ども新たに平民に編入せられたるに驕気を生じ、良民に対し粗暴のふるまひ多かりければ、府庁の依嘱により、彼等を集めて平民に編入せられたる朝恩の広大なるを訓諭し、報効の手初として国中三箇所の険道を平坦にすべき旨を勧めたるに、彼等悦服して立所に三千人を出して修治せり。また父は、大坂の長與専齋、大井卜新二氏、神戸の外人ボオドイン氏寺の後援を得て、京都市内に一店を設け、洋薬を主として石油、洋酒等をも鬻ぎ「ポン水《すゐ》」と称して今の所謂ゆる「ラムネ」をも製造して販売せり。また府知事植村氏其他諸有志に勧めて博覧会を仙洞御所に開き、またボオドイン氏の設計により、円山に鉱泉場を開きて諸人の衛生に資せり。以上舎密局、小学校、病院、博覧会、鉱泉場等は、全国に於て京都府の率先して施設する所、また京都府下に養蚕、製茶を奨励し、洋薬、石油等を販売せるは、実に父を以て嚆矢とする所なり。而も是等のこと一として容易に好果を収め得たるは無かりき。目を著くる所独早くして時運は未だ到らず、常に保守姑息の徒の多数を頼みて嫉視妨害するあり。また無能にして漫罵詆笑を事とする徒の頻りに投機者流を以て父及び父の同志者を呼ぶあり。此間に処するの苦心は如何ばかりぞ。寺は寺格の高きにかかはらず、無檀の古刹なれば、些の資財あるにあらず、清廉無欲にして極端に公益をのみ思ふ急進空想の人なる父は、万余の債を負ひて、明治十二年堂宇地所を挙げて競売に附せられつ。年頃経営せる所も概ね失敗に終りぬ。ただ円山の鉱泉場のみは今も面かげを残せど、早く他人の手に移りて、その実質も父が営める初とはいたく異れり。さはれ父が京都に於ける公共事業に絶縁しつる後も、新思想の有力者つぎつぎに起りて、我国の新事業は常に京都府民によりて先鞭を著けらるるの観ありしは、時運の到ると共に他人に由りて父の志の大成せられつるとも謂ふべきか。明治十三年、再び法衣を著けて西本願寺の役僧となり、同四月、鹿児島本願寺出張所の顧問として派遣せられ、県下の布教に従事す。翌年県知事渡邊千秋氏と謀り、戦後の窮困せる士族に新業を授けんとし、基金として西本願寺より参万円を寄附せしめ、翌十六年鹿児島興業館を創設するに到りしが、そは今も現存せり。十四年以後、大隅国加治木説教場主任を兼ね、布教の傍、鉱業、養蚕業、西洋葡萄及び楮の栽培等を奨励し、楮と葡萄とは苗木を東京より取寄せて寺内に移植し、無料を以て需要者に頒てり。また士族の子弟の為に儒書及び舎密学を講じ、各村の公共事業費を作る為に頼母子講を設くるなど、施設する所すくなからず。十七年夏、医の薬物の分量を誤りしに由りて大患を得、京都にある子大圓の来り迎へて切に東帰を勧むるに遇ひ、少しく癒えて後、職を辞して京都に帰れり。翌十八年、本願寺の支院、愛宕郡一乗寺村養源寺に隠栖し、爾後また世事に与らず、念仏と詠歌とを以て優遊自適し、稀に後進の為に国典を講ずるのみ。明治二十七年、寺務を見るを厭ひて愛宕郡高野村に僑居し、同二十九年の冬、洛東歌の中山なる清閑寺の幽静を愛でて、そこに移れり。同三十年の冬、周防徳山なる子照幢のもとに遊び、翌三十一年六月より病を得、八月十七日午前三時に身まかり給ひき。享年七十六。遺骨は京都西大谷なる妻初枝の墓に合せて葬れり。
一、父の幼名は詳ならず。法名は禮嚴。雅号を尚絅、又は尚歌堂といへり。人となり、内に豪気を負ひ、志操堅実にして清廉、外は温厚優雅の風姿あり。平生読書を好み、小閑あれば即ち巻を放たず。学は仏、儒、老、荘、国典等に渉りしが、就中、唯識、六国史、万葉集、古今集、韻鏡等に精通せり。説教を善くし、又特に遊説の弁に長ず。その人を説くや、徐ろに種種旁系の問題を出して対者をして先づ所感を言はしめ、討究数次の間、おのづからわが言はんとする主要の意見を却て対者をして言はしむるに及び、徹頭徹尾我は之を賛ずるの位地に立つが故に、毫も他を不快ならしむることなく、よく悦服随喜せしむるを得たりと言ふ。父が維新前後の事功は、私欲に澹泊にして公事に熱烈なる稟性と、この温顔善弁の徳とに由るならんか。さはれ、軽薄なる世情に対しては、時に痛憤の抑へ難きものやありけん、みづからの嗔恚を戒めらるる歌の此集に多きを見れば、父はまた克己の心を修めて内に善く忍ぶの人なりけらし。また、さばかり他人に対して善く忍び給ひし父の、折にふれて、子等に向ひ激怒を発せられしは、我等の放逸なる性精を矯めんとの御心《みこころ》しらひなりけんと思ふに、かへすがへすもかたじけなし。
一、父は若狭国高浜の専能寺に養子となられし頃、一男あり、響天と云ひ、大都城氏を襲げり。京に来り、山崎氏を娶りて大圓、照幢、巖、寛、修の五男、靜子の一女を挙げられたり。大圓は和田氏を冒し、照幢は赤松氏を冒し、寛は家を襲げり。
一、此集に父の写真を載すると共に、記念として母の写真をも載せたり。母、名は初枝、天保十年二月二十一日京都の商家山崎氏に生れ、明治二十九年九月二日五十八歳を以て身まかり給ひき。人となり、都雅快濶にして細憂に拘拘たらず、貧寒の間に居りて絃を弾じ、大津絵を歌ひ、奇謔常に人の頤を解けり。
一、また、此集に挿みたる父の筆蹟の初なるは壮年の頃の詠草、次なるは晩年の詠草及び短冊なり。
   明治四十三年七月十五日、
[#地から7字上げ]東京駿河台に於て、  
[#地から2字上げ]與謝野 寛しるす。
[#ここで字下げ終わり]

  禮嚴法師歌集

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わが嗔恚のこころを戒めて。
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かりそめに土水《つちみづ》火風《ひかぜ》もて造る身ぞと思へば何か嗔らん

毒を持ついかり心に世の中の人を害《そこな》ふ毒虫《どくむし》ぞわれ

風に散る花も木葉《このは》も嗔らずとながめ悟ればわが法《のり》ぞかし

正眼《まさめ》にて観れば月日も雨風も世に嗔りなき友にはありけり

雲は行く水は流れつ腹黒きおのが嗔りにかかはりもせで

春の花秋の紅葉の色も香も身をなぐさめつ嗔り無ければ

嗔らずば我を守らぬものもなし海山かけて天の下には

過ぎし世に向ひて怒り試みよ空しく消えて跡形もなし

獣《けもの》にも角生ひ蹄《ひづめ》牙歯《きば》あるはむかし嗔りしなごりとぞ聞く

あとの波は前《さき》の波とも知らねどもえにしよりこそ又起りけれ

なにごとも嗔れば破れ睦魂《むつだま》のあへる中《なか》にぞ道は成るとふ

諍はで何れの道もむつまじくつとむれば世の為《ため》とこそなれ

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折にふれて、老を歎きつつ詠める。
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いなと言へど攫《つか》みかかりて皺よりてすべなきものは老の奴《やつこ》ぞ

松生ふる荒磯《ありそ》ならねどしくしくに寄りくるものは老の年波

かりそめと思ひ結びし草の庵いつか頭《かしら》の霜枯れにけん

人かずによみ洩されて老いぬれば浮世の外に生き残るかな

前《さき》つ世の如何なる罪のむくいきて拙かるらん老が身のすゑ

老いて世にすてられんとは思ひきやあはれ六十路もたはぶれの夢

われこそは浦洲《うらす》の鳥のうらさびて世にもまじらず身は老いにけれ

たのみなき老のあはれを敷栲《しきたへ》の枕ぬらして泣く寝覚かな

いたづらに人かずならず老いにけり我やうき世の飯袋《めしぶくろ》なる

年老いて物忘るるは住の江に貝を拾ひしむくいなるらん

草も木も花こそうつれ常磐樹のかはらぬ世こそあらまほしけれ

老いぬれば痩せさらぼへる身を愧ぢて人住む世には出でじとぞ思ふ

六十ぢあまり過ぎしは夢のうき世にて覚めし現《うつつ》は今日ひと日のみ

老いぬれば傾く月を見るにさへ末長からぬわが身さびしも

大椋《おほくら》の池にうかるる鴛鴦《をしどり》のをしき月日をいたづらに経ぬ

あぢきなき我や潮干《しほひ》のみをつくし何のしるしか世に残るらん

我ばかりからき世嘗めし身のはては路の蓼生に骨《かばね》曝さん

身の老いし歎きにまさる憂きもがなそよ其事とまぎれもぞする

かぞふれば七十ぢ三とせ老い暮れぬさりとて世にはわざも残らず

言問はぬ木すら花咲きみのれるを人に生れて木に如かずけり

いつまでの老が命ぞ世の憂きもこの身を土になすまでぞかし

人並に生くる甲斐なし若狭路の後瀬《のちせ》の山の後の世ぞ待つ

愚かなる心に身をば守《も》られきて怨言《かごと》ばかりに世を終るかな

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花の歌の中に。
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春くれば花こそ先づはしたはるれ思ひ捨てても世の中ぞかし

うちはらふ莚の塵もかをるかな咲き埋みたる花の下庵

人の世に心とどめて花見ればさかりの間こそすくなかりけれ

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明治二十九年の冬、洛東歌の中山清閑寺に移り住みて、次の年の春に詠める。
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天地はものこそ言はね鶯を啼かせて山に春ぞ告げける

鶯は稀に来啼けど竹ばしらかたぶく庵に雪はふりつつ

山寺の茅葺ごしに雪折の梅も咲きけり春や来ぬらん

山深み月日も知らず雪ふかみ春と知らねど鶯啼くも

わが老と積りし山の雪のみは年は立てども消えずもあるかな

花を待つ下ごころには春雨のそそぐしもこそうれしかりけれ

わが山の谷間の花の薄明《うすあか》り雨夜《あまよ》の月にむささびの啼く

春雨に花のとぼその霧曇り都のかたも見えぬ窓かな

こころよき春のうたたね降る雨を夢とうつつの中空に聴く

春日かげ長閑に霞む山寺に苔路きよめて花を見るかな

老の身は後たのまれず花のみは春は往ぬともとはに咲かぬか

花の枝の下《した》なる窓を朝目よく開くれば月に鶯の啼く

うち見れば世を終るまで惜まれつ花はわがため絆《ほだし》とぞ思ふ

七十ぢにあまる春までながめても花は老せず若やかに咲く

霞みつつ日は落ちにけり山かげの花のみ白き春の夕ぐれ

年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな

ものいはぬ仏と住めばものいはぬ花もたふとし歌の中山

身につもる思を何になぐさめん常磐ににほふ花も咲けかし

うつせみの世に捨てられて山に入れば我より前《さき》に花ぞかをれる

花の色よ老だに隠せ若《わか》からば陰には千世の春も経ぬべし

そよ吹けば香こそはまされあだながら花にも待ちぬ松の下風

かなしくも濡れつつ散りぬさくら花この春雨に濡れつつ散りぬ

山風のはらへば積り積りして簀子《すのこ》に花の絶えぬ庵かな

風ならで訪ふ人もなき山の戸は掃
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