れて住職禮道の二男となる。弘化二年四月京都に上りて西本願寺の学林に懸席し、同年五月西本願寺に於て得度す。京都に学ぶこと数年、偶江戸の国学者八木立禮大人の来りて、摂津国多田の荘に帷を下し給ふと聞き、行きて師事し、国書歌文の教を受く。八木大人は幕臣の二男にして本居春庭翁の門を出づ。其妻敏子刀自また歌と書とを善くせり。翌年師夫妻を奉じて丹後国に帰り、与謝郡清滝村に暫く師を留めて講筵に侍す。次いで京に上り、畿内を漫遊して、伊勢の神宮を詣で、東海道を行脚して江戸に出づ。この旅行によりて見聞を広むる所多く、又時勢の推移に就いて深く憂ふる所あり、慨然として君国の為に微力を致さんことを思ひぬ。それより丹後国に帰りしに、仲立するものありて若狭国大飯郡高浜の専能寺に養はれて住職す。そこにても師八木大人夫妻を屈請して講莚に侍す。居ること二年、故ありて寺を去り、京都に出でて本願寺の役僧となり、兼ねて畿内附近の地に説教す。安政四年五月十五日山城国愛宕郡岡崎村の願成寺に入り、同年八月六日住職す。其年、京都新車屋町二条下る山崎惣兵衞の長女初枝を娶れり。当時攘夷論と共に幕府の外交を批難し、勤王討幕を唱ふるなど、世諭鼎沸して、諸藩の志士京都に集る者日日に繁く、幕吏の頻りに之を物色するあり、うれたき事ども多かりし中に、父は窃に其れ等の志士と往来して画策する所ありしが、わきて薩摩藩には八田友紀、村山松根、黒田嘉右衞門、高崎正風の諸歌人を通じて交友多く、小松帶刀、土師吉兵衞、椎原小彌太、内田政風、西郷吉之助、大久保一藏、吉井幸輔、伊地知正治の諸氏と交るに至り、常に薩摩の藩邸に出入して京都の形勢、諸藩の動静を内報し、その他細事に亘りて薩藩の為めに幾多の便宜を計りぬ。例へば相国寺に交渉して立所に薩兵三千人の陣所をしつらひたる、伏見鳥羽の戦ひ初まれる中に、一夜にして参万金の軍資を調達したるたぐひ、一一に挙ぐべくもあらず。父の意は薩藩を通じて微力を王事に致さんとするにありしなり。また父は薩藩を経て種種の建言を朝廷に奉りしが、明治元年一月四日の夜、おなじく薩藩を経て参与所に奉りつる三箇条の建言の如きは、二日を出でずして実施せられき。その一に曰く。急遽の際兵力に乏しければ、臨機の策として西本願寺に命じ、近国の寺院より僧兵を召さば、千五百人乃至二千人を集むるを得べし。そをもて皇居の御警衛に当て給はんことを。この事立所に
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