卒業して阿弗利加に居る父親の処へ行く時、七年の間の屋根裏《マンサルド》の生活を止めたので作つた詩ですわ。
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――その男は「地へ」だ、僕は「天へ」だ。しかし僕も屋根裏《マンサルド》まで昇れば引返すかも知れない。
――菊《クリザンテエム》の国へ引返すんでせう。
――まだ其処までは考へられない。
――あなた御存じ。
――なにを。
――マダム・タケノウチの写真がオペラの前の店に並んで居るのを。
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 タケノウチを女は露西亜人の名のやうにタケノウイツチと発音するのが習慣になつて居る。おれは LES ANNALES 誌の主筆のブリツソン君が撮つて雑誌に載せた妻とおれとのまづい面《つら》の写真が複製されてグラン・ブルヴアルで売られて居ることを知つて居た。おれは南洋の土人夫婦と云つた風に撮られたあの獰猛な相の写真が妻の目に触れずに済んだことを喜んだのであつた。雑誌が公にされた時、妻はもうスエズを東へ越えて居た。
 ――僕も知つて居る。
 と云つたが、おれは此女と妻のことに就て語りたくなかつたので、
 ――何かもつと面白い新消息《エコオ・ヌウボウ》があるでせう。
 と話題を転じてしまつた。おれと此女との間に用ひる新消息《エコオ・ヌウボウ》と云ふ語《ことば》は芸術と芸術家に関する新しい珍聞を意味して居るのである。おれは手を洗つて、もう服を着かへてしまつて居た。女は何か思ひ出したらしく莞爾《につこり》しながら、おれと並んで長椅子へ腰を掛けて、
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――ダンヌンチヨが先《さき》の週に或|珈琲店《キヤツフエ》で或女優に言つた話があるの。女優は若い女で小説家に惚れて居るんです。夜食《スウペ》の卓に胡桃が出ると、伊太利の大小説家は女に向いて云ひました、「恋は胡桃だよ、壊さなくちや味が解らない、さうでせう」つて。
――ダンヌンチヨはこれまで沢山の胡桃を壊《こは》したんだらう。
――えヽ、えヽ、巴里でも沢山。………わたしはあの人の飼つて居る廿七匹の猟犬が競売に出たら、その中の一匹それはそれは買ひたくてならない 〔LE'VRIER〕 がありますの。
――大小説家が競売をするかしら。
――仏蘭西の今の文学者にダンヌンチヨのやうな奢侈家は居ません。ダンヌンチヨは作物と奢侈と借金とで名高くなつた文学者ですわ。借金で伊太利に居られなくなつた人は巴里にも居られなくなる時が来ます、屹度。
――あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。
――帰りではなくて行く途中よ。………あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。
――それは悪《わる》くない。
――ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから三鞭酒《シヤンパアニユ》の名高い産地ですわ。王政時代の古いホテルで一晩泊つて明日の夕方芝居の時間までに帰つて来ませう。
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 女の言葉には拒むことの出来ない力があつた。おれは躊躇せずにこの突発の勧誘に応じてしまつた。
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――行かう、それは面白からう……… 汽車は何時に出るの。
――午後四時。
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 時計を見ると四十分の猶予しかなかつた。おれは急いで顔を剃つた。女も手提の金色《きんいろ》の嚢《サツク》から白粉入を出しておれの使つて居る掛鏡《かけかがみ》を覗き込みながら化粧をしなほした。おれはトランクの底から百フランの紙幣を三枚抜き出してそつと洋袴《パンタロン》の隠しへ捻ぢ込んだ。
 発車前十分におれ達の自動車は北の停車場へ着いた。女は荷物《パツケ》をおれに持たせて置いて二人の二等の往復切符を買つた。荷物《パツケ》は量《かさ》の割に軽いものである。おれは女がなぜこんな荷物《パツケ》を持つて出掛けるのか解らなかつた。おれは停車場の中の本屋でランスの智識を得るためにベデカアの北部仏蘭西の部を買ひ求めた。
 汽車の中の廊を通る時、婦人専用室の中に腰を掛けた品のいい一人の老婦人の目と女の目とが合つた。二人は挨拶した。そして女が後ろを一寸振り向いて閃かした 〔UN COUP D'OE&IL〕[#「〔UN COUP D'OE&IL〕」は底本では「〔UN COUP D,OE&IL〕」] の信号がおれを一人で澄したままさつさと他の男女雑居の二等室へ入らせた。女はおれにつづいて来なかつた、そのまま老婦人の室へ席を取つてしまはねばならなかつたのであらう。おれは十五六年前にも或女を伴れた旅行でこんな経験をしたことを朧気に思ひ出したが、それが日本の何処の鉄道線であつたかが思ひ出せなかつた。おれは併し隣の空《あ》いた席へ荷物《パツケ》を置いて後《あと》から入つて来る乗客に「これは僕
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