あ。』
[#ここで字下げ終わり]
と言ひ乍ら山田は渋々《しぶ/″\》二重|廻《まはし》を脱いだ。下にはまがひ[#「まがひ」に傍点]の大島|絣《がすり》の羽織と綿入《わたいれ》とを揃へて着て居る。美奈子は挨拶もせずに下へ下《お》りて行つた。執達吏は折革包《をりかばん》から書類と矢立《やたて》とを出した。
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『君は五年も遣つて来無かつたね。』
『はい、大分長く遠慮して居ましたが、先生は太相《たいさう》御《ご》運が直つたと聞いたから頂戴せずに居ては冥加《みやうが》が悪いと思つて。』
『僕は相変らずだ、運が直る所《どころ》か、益々惨憺たるものだ。』
『いや、然《さ》うで無いて、余程《よつぽど》貯蓄《たま》つたちふぢや有りませんか。』
『何処《どこ》にそんな評判があるのだい。』
『博覧会を当込《あてこみ》に大分土地を買収なさつたつて。』
『とんでも無い事だ。併《しか》し僕には珍らしい縁喜《えんぎ》の善《よ》い噂だ。然《さ》う云ふ身分に成れば結構だが。』
『先生は隠しても日本中で知つてまさあ。[#「。」は底本では脱落]新聞にも出てましたぜ。』
『ふふん、それは素敵だ。』
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執達吏は書類を保雄の前に出して、
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『何《いづ》れ御《ご》示談に成りませうが、私の職務ですから成規《せいき》の通《とほり》に執行致しませう。』
『御《ご》苦労様です。差押へて呉れ給へ。何も有りや為《し》無いよ。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は先《ま》づ床の間の古書類を目録に記入した。
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『古事記伝、大部なものですな。春あけぼの抄、万葉考、えいと、元享釈書。』
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執達吏の読上げて居る書籍は此春《このはる》郷里の兄から頒《わ》けて呉れた亡父の遺物である。保雄は父の遺骸を鬼に喰はれて居る様な気が為《し》た。額、座蒲団、花瓶《はなかめ》、書棚、火鉢、机と一順二階の品《しな》を押《おさ》へ終ると、執達吏と債権者は下へ降りた。保雄も尾《つ》いて降りたが、美奈子は末の娘の児《こ》を抱いて火鉢の前に目を泣き脹《はら》して座つて居た。[#「。」は底本では脱落]
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『己《おれ》が銭を蓄《た》めて土地を買占めたと云ふ事が新聞に出た相だが、お前は読ま無かつたか。』
『読売の「はなしのたね」に出て居ましたよ。』
『然《さ》うか。其れで此の人達が来られたんだがね。』
[#ここで字下げ終わり]
保雄は相変らず自分に対する新聞雑誌記者の無責任な悪戯《いたづら》は己《や》まないのだなと思つた。茶の間の前桐の箪笥の前に立つた山田は、
『立派な箪笥だ。』
と云つた。最初美奈子が里から持つて来た幾棹かの箪笥を、八年前に競売せられてから去年の春迄一本の箪笥も無かつたのであるが、美奈子の妹が不自由だらうと云ふので、箪笥の代《しろ》にせよと五十円の金子《かね》を送つて呉れた。最初の金子《かね》は雑誌の費用に遣《つか》つて仕舞《しま》つたので、其れと感|附《づ》いた妹は又一年程の後《のち》に二度目の五十円を送つて呉れたが、美奈子は其の金子《かね》をも大部分|生活《くらし》の方に遣い込んで妹が上京して来た時余り体裁《きまり》が悪いので、言訳《いひわけ》計《ばか》りに古道具屋を探して廉物《やすもの》を買つて来たのが此の箪笥であつた。執達吏は抽出《ひきだし》に手を掛けたが明《あ》か無いので、
『鍵がありますか。』
と保雄を顧みた。
『ここに。』
と言つて美奈子は帯の間から鍵を出して良人《をつと》に手渡した。其れが如何にも苦しく怨《うら》めし相な目附であつた。
(四)
箪笥の上の抽出《ひきだし》からは保雄の褻《け》にも晴《はれ》にも一着しか無い脊広が引出された。去年の暮、保雄が郷里の講習会に聘《へい》せられて行つた時、十二年|振《ぶり》に初めて新調したものだ。其の洋服代も美奈子が某《ばう》新聞社へ売つた小説の稿料の中から支払つたので妻が夜《よ》の目も眠らずに働いた労力の報酬の片端である。又一枚しか無い保雄の大島の羽織が抓《つま》み出された。是《これ》は亡くなつた美奈子の父の遺品《かたみ》だ。保雄も美奈子も八九年間に一枚の着物すら新調した事は無いのである。保雄が執達吏の目録を覗《のぞ》いて見ると、
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一、大島紬羽織一点見積代金参円
一、霜降セル地脊広一着見積代金二円
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と書かれた。縁《えん》の方へ廻つて八歳《やつつ》に成る兄と六歳《むつつ》に成る弟とが障子の破れから覗《のぞ》いて居る。
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『兄《にい》さん、今度は僕と兄《にい》さんの抽出《ひきだし》ですよ。』
[#ここで字下げ終わり]
『新聞社から差押に来たんだ。』
兄の勇雄《いさを》は父と母の話を聞き噛《かぢ》つて此んな事を言つて居る。悪い所をば小供等に見せる事だと両親《ふたおや》は心の内で思つたが、差押に慣れた幼い二人は存外平気である。[#「。」は底本では脱落]
『兄《にい》さん、まだ箪笥へ紙を張らないのね。』
『あとで張るんだらう。』
『二人とも門口《かどぐち》で遊べ。』
と保雄は怒鳴《どな》つた。二番目の抽出《ひきだし》からは二人の男の子の着類《きるゐ》が出て来た。皆洗ひ晒しの木綿物の単衣《ひとへ》計《ばか》りであつた。三番目の抽出《ひきだし》から出たのは二人の女《をなご》の子の物|計《ばか》りで、色の褪《さ》めたメリンスの単衣《ひとへ》が五六枚、外へ此《こゝ》の双生児《ふたご》の娘が生れた時、美奈子が某《なにがし》書店に頼んでお伽噺を書かせて貰つて其の稿料で拵《こしら》へた、緋の羽二重に花菱の定紋《ぢやうもん》を抜いた一対の産衣《うぶぎ》が萎《な》へばんでは居《を》るが目立つて艶《なまめ》かしい。最後の抽出《ひきだし》には来月生れると云ふ小児《こども》の紅木綿の着物や襁褓《むつき》が幾枚か出て来た。次の間から眺めて居た美奈子は堪《こら》へ兼ねてわつ[#「わつ」に傍点]と泣き伏した。何も知らぬ腹の中の児《こ》迄が世に出ぬ先から既に着るべき物を剥《は》がれて行《ゆ》くのが母親の心に何《ど》れ丈悲しい事であらう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『おい、然《そ》う感動するな。平気で居《を》れ。身体《からだ》に障《さは》るから。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は其の産衣《うぶぎ》をも襁褓《むつき》をも目録に記入した。何物をも見|逃《のが》さじとする債権者の山田は押入《おしいれ》の襖子《からかみ》を開けたが、其処《そこ》からは夜具《やぐ》の外に大きな手文庫が一つ出て来た。文庫の中には保雄と美奈子の十年前の恋の手紙が充満《いつぱい》収めてある。保雄は焚《や》いて仕舞はうと言つた事もあつたが、美奈子は良人《をつと》と自分との若い血汐も魂《たましひ》も元気も皆|之《これ》に籠《こも》つてあると思つて、如何に二人が貧苦に痩せ衰へても、又如何に二人が襤褸《ぼろ》を下《さ》げて生活《くら》しても、此の文庫の中を開けさへすれば永劫変らぬ二人の若々しい本体は何時《いつ》でも見られるものだと極《き》めて、良人《をつと》にも手を触れさせぬ程大切にして居るのである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『それはお銭《あし》に成るものぢや有りませんよ。』
[#ここで字下げ終わり]
美奈子は凛《りん》とした甲走《かんばし》つた声で云つた。執達吏と山田とは文庫を一寸《ちよつと》開けて見て
『書類ですな。』
と言つて蓋をした。保雄は偶《ふ》とキイツの遺《のこ》した艶書が競売に附せられた事を思《おもひ》出して、自分達の艶書は未《ま》だ銭《ぜに》に成るには早いと独り苦笑した。
門前には誰か来客があるらしい。
『お父《とう》様は。』
と訊《き》くと、兄の勇雄が、
『お在宅《うち》ですよ。』
『お客様ですか。』
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『新聞社から役人が来て差押をして居るの。』
『僕達の着物も、母《かあ》さんのも、阿父《おとう》さんの物も。』
[#ここで字下げ終わり]
と弟の満雄《みつを》が言ひ足して居る。保雄は出掛けて行つて二人の小供を叱る勇気も無かつた。[#地から1字上げ](完)
底本:「読売新聞」読売新聞東京本社
1909(明治42)年3月14日〜17日連載
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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