きつれて、家に閉ぢ籠つて社会から独立し、よし社会が彼に対して憤つても其無力を嘲る事が出来たのである」。
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 現に東京の或富豪は、近頃は工場を経営すれば争議が起る、借家を建てれば家賃は制限される様なうるさい世の中だから、品川のお台場の様な所に鉄筋コンクリート建の屋敷を建て、真逆の時には金貨と食糧品とを携へて籠城すると、本気になつて計画して居るといふ話を聞いたことがある。

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「今や人の家は彼の城郭でない、あらゆる低能児、あらゆる無茶者が彼の死命を左右する。一寸触れゝばすぐ歯車を外せる様な華奢な仕掛のからくりで、彼の生活が調節されて居るのだ。文明ほどこはれ易いものは外に又とない。如何に高度の文明でも、それが面して居る多種多様の危険に対して、終り迄頑張り続けた例は無い。今日腕白小僧の様な大人は誰でも、社会に対して『俺のほしがつて居る飴ん棒をくれ、くれなけれやお前の生活が辛抱出来ぬ程ひどい目にあはしてやるから』といふ事が出来る、して又其いふ通り暫くは其腕白の為に、我々の人生が耐へ難いものにされるのだ」。
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 此事を独逸のニコライ教授は、急行列車の前に立つ人間に譬へた。即ち社会といふ大組織の前によし一個人が頑張つて見ても、急行列車の突進して来る軌道上に犬が吠えてる様なもので、いくら吠えてもごまめの歯ぎしりで到底埒が明かぬと多くの人は云ふのだけれ共、実際軌道の傍に居る一人の男が、今走つて来る汽車は気に食はぬから止めてやれと思ふたら、唯一投手の労、軌道の繋ぎ目のネヂに触れゝば、よし犬には出来ない芸当でも、理智を具へた人間ならやりおほせる事が出来るといふ譬へ話である。
 左側通行や節約の宣伝、夏休みの短縮なぞの外形上の変化にクヨ/\する前に、まづ我等の文化生活が此様に密に繋がれてをり、しかも社会といふものは案外やにこいものだといふ事を会得しなければ、何事もウソだ、万事は気休めである。



底本:「日本の名随筆 別巻96 大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「山本宣治全集 第五巻」汐文社
   1979(昭和54)年6月
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2001年5月23日公開
2006年5月19日修正
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