病じゃないかと思う、その点ですよ。どうですね。あんたもその患者の一人ということにしておいたら……」
「そうですわね、貴方の奥様が流行衣装に懸命になると同じような……」
「ハハハハ、ともかく私はあんたの身を案ずればこそ苦言も述べるので……」
「御親切様にいろいろと有りがとう存じます。いずれ暇をつくって拝聴に参りますからその節また……。私は、これから庶務で今自分の給料を頂かねばなりませんし、それに積立金もカードで計算しなければなりませんから、これで失礼します。」
槇子は軽く頭を下げて足を廻転させた。
「おい! 前川さん、あんたは何て性急《せっかち》なんだ。私はまだ話を終っていないよ……」
「あら、まだお話がありますの、私についての御注意でしたらもう十二分に……」
「いや、私はもう何も云わんよ。お掛けなさい。もう十分ばかりいいでしょう。これ迄も折角私はあんたへ特別の目をかけてきとる。今更あんたのようなしっかりした人を他へやる気も起らんよ。どうだね、御希望なら、私がもう一度極力奔走してみてもいいが。それとも他にあんたの望みでもあるなら、その方へ世話してあげよう、新聞社なんかあんたの適任じゃないかな。」
張り子の虎みたいに首を伸ばして、部長はその眼の光りに露骨な色を加えた。
「御好意だけは……」
「どうだね、あんたはどっちがいいの、銀行《うち》にいるならいるでその方法を講じ度いと思うしね、他なら他で丁度婦人記者を探してるところがあるから、何ァに給料のことは心配せんでも、その点は私が保証してさしあげますよ。だがこのことは私の肚《はら》一つの裁断だからその点お含みをな。」
「まァ部長さん、貴方は仲々どうして、老練なドン・ジュアンですわ。私に附いてる真赤なトレードマークがお気に召すなんて、余程の悪食家ですわね。ホホホ……同じプレミアム附でも、私のは爆裂弾かもしれませんわ。それに、生憎、私、貴方の別荘の所在地が気に入りませんしね。お気の毒ですけど、じゃァ左様なら。」
胸を張って、昂然と、槇子は部屋を出て行った。
* * *
「どうして? ばかに遅かったわね。」
昼食時刻を、祥子は槇子を待ちあぐんでいた。
「とうとうこれ[#「これ」に傍点]なの。」
クルクル指で弄《もてあそ》んでいた紙で、槇子は威勢よく首筋を切った。
「原因は?」
彼女の手から紙を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取って、それへ眼を馳せ乍ら、祥子は青白んだ皮膚をビリビリ慄わせた。
「Sの研究会で犬に嗅がれたのが直接の原因らしいわ。あの時、煙に巻けァよかったんだけどね。失敗したわ。それから、あの例の本ね、調査の北沢さんに貸してあった。あれを何時だったか北沢さんが洗面所へ置き忘れたのよ。生憎私のサインが入っていたらしいの。今度のは、みんな私の不注意からなのよ。ばかばかしい、ったらないわ。」
「それだけなの、ここでの結果に就てじゃないの?」
「大丈夫よ。やられたのは私一人。」
「よかったわね。ほんと?」
「疑うの? 安心していいのよ。でも、私が出ちゃったら却って外部《そと》での運動《しごと》が自由でやりいいわ。こうなるのが本望だったわね、あのゴリラの奴ったら、私を罠へかけるつもりで、その実、奴自身が罠に引っかかってるのよ。醜態だわ。……でもね、これからが危険期でしょ。だからあんたの出来る限りのカモフラージュはね。」
「うん、それァね。けど、切られたあんたの首のやり場に、私苦労してるわ。」
「その心配ならいいの。私、京橋に勤口見付けてあるわ。」
「愕いた。早いひと!」
「予感がしてたのね。一週間ばかり前から。知ってるでしょう、あの有名なボロ保険のHよ。三十七円くれるって。」
「あんたの根は其処で延びるわけね。波間の海草みたいに、始終動揺してるこの事務員階級をまとめていくって、わりと骨仕事ね、だけど、此処で三十人近く集めたのは大きい事だわ。」
「己惚《うぬぼれ》ちゃ駄目よ。私達に残された仕事は、まだまだうんとあるんだから……これがほんの序の口よ。……じゃ、私、これから行って京橋きめてくるわ。」
祥子の額にたれかかったおくれ毛を耳へ挟んでやってから、槇子は、両腕を高く振りあげて大きな背のびを始めた。
底本:「日本プロレタリア文学集・23 婦人作家集(三)」新日本出版社
1987(昭和62)年11月30日初版
1989(平成元)年5月15日第3刷
底本の親本:「文学時代」
1930(昭和5)年12月号
入力:林 幸雄
校正:染川隆俊
2001年6月28日公開
2006年5月18日修正
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