間へ呼ばれて財産分配の遺言めいたことを父からきかされるのがきまりになっていた。これは、父が自分の老齢を気付かっての万一の時の用意と思われる。ここ一、二年は戦時景気で父の鉄工所は好調を示しているので子供たちへの分配高もだんだんにのぼってきている。父はずっと前から自分の世話をしてくれるものに三万円を残してやりたいと姉には洩していた風であったが、今年は子供たちと一緒におきえさんも呼ばれて更めて父からこの話をきかされた。それがどこから飯尾さんの耳へはいったのか、「おきえさんは果報なかたですねえ」と探るように姉や紀久子へ話しかけてくるのだった。それでなくともこの元旦のひと時は飯尾さんにとっては一年中での緊張の極点であったらしい。何かしら落付きがなくなり、用ありげに茶の間と厨の間を往き来しながら居間の気配に聞き耳を立てている様子であった。そして、父の居間から出てきた姉や紀久子をもの問いたげな眼つきでちらちらとみやるのだった。飯尾さんにしてみれば、もうこの家の人も同然な自分にも何分の御沙汰があってしかるべきものを、と心待ちにしているのも無理からぬことであろう。年取るにつれて身寄りのない孤独感が迫れば迫る程金に執着していく飯尾さんの気もちが紀久子には分らぬではなかったが、それへ同情する心の動いてこないのをどうしようもなく思うのである。それで、今もおきえさんから小遣いを貰ったといって自分へみせにきた飯尾さんを前にしても、紀久子は単純な心でそれを悦んではやれず、そのみせびらかすような素振りさえ一種の自分への示威のように思われてくるのである。
「紀久ちゃんにはおきえさんの気心が分らないはずがないのに、あんまり劬りがなさすぎますよ」
 いつぞや、姉はこう窘《たしな》めるように紀久子へ云ったことがあった。何んでも、おきえさんが紀久子へ手土産にした品を、「子供だましだ」とか、「田舎くさい柄あいだ」とか云って事々に紀久子がけなしていたというのをおきえさんが耳にして、そんなにお気を悪くしていらしたとも知らず、ただ紀久子さんに悦んで頂きたい一心で自分はそれをしていた、と涙ぐんで姉に話したというのであった。それが飯尾さんから洩れていったものだとは分っていたが、姉へわざわざ自分の気もちを説明する程のこともあるまい、と紀久子は黙っていた。そして、この頃、外へ出ても前のように手土産を持ち皈らなくなったおきえさんの、心もちを寂しく思いやった。
 こうして、飯尾さんがおきえさんに接近していくにつれておきえさんは紀久子からだんだん遠のいていくように思われる。この感じから、自分の眼のとどかないところでひそひそ話をしている二人を想像しては妙に神経をいら立たせて監視するような眼つきで二人をみている自分に気付くことがあった。
 いつか、紀久子が外から戻ると、いつも茶の間に坐りこんでいる飯尾さんの姿はなく、福にきくと蔵の中だというので行ってみると、おきえさんと二人で長持ちの中の片付けものをしているのだった。わざわざ自分の留守を狙ってそんなことをしなくとも、と思ったので少々苦い顔をしてみせると、おきえさんは申訳なさそうに、
「わたしの荷物を少し入れさせて頂こうと思いまして」と頼むようにちょっと会釈した。蔵の鍵は飯尾さんにまかせてあるとはいえ、何かの用で蔵へ入る時はいつも家のものが一緒であった。それが母のいた頃からの慣しだったのである。それを飯尾さんが勝手に鍵を使っている。いい気になって増長しているようで、かなわない気がする。飯尾さんとすれば、おきえさんは家の人なのだからその人のお供で蔵へ入るのは何んとも思ってはいないのだろう、いつもの顔で甲斐がいしく荷物の世話をやいている。
 その夜、紀久子は父の居間へ呼ばれた。
「紀久子も嫁入り前だし、これからはいろいろ支度の方のこともあって忙しくなるだろうから、家の事は須藤にまかせてみたらどうかね。いや、須藤もいつまでああじゃ困るし家庭のことを追々と覚えてもらわんといかんからな」
 予期しない言葉であった。紀久子がまごついて返事をせずにいると、「この間から思いついていたんだが……」と、父は思い出したようにつけ足した。それが何か今の言葉を弁解しているようにきこえる。
「お父様の仰言る通りでよろしいですわ」
 しばらくして紀久子は云ったが、眼の前の父の姿がよそよそしい遠いものに感じられるのはどういう訳かしら、と呆んやり考えていた。
 父やおきえさんや飯尾さんの姿がひとかたまりになってずっと離れたところに感じられるようになると、紀久子の心はしきりに兄を求めていった。兄だけがこの世で身近い唯一人だと思う。そう思いこもうと努め、兄へ追いすがろうとしている自分の姿に気付いた時は哀しい。もしかしたら父よりももっともっと自分には遠い兄であるかもしれぬのだ。時として、この哀しみが胸を痛めつけてくる。
 或る陽暮れ時、紀久子が二階の部屋へ行くと、兄は電灯のついていない薄暗い窓べりの籐椅子にのけぞっていた。「兄さん!」と声をかけると、「うん」と懶げに返事をしたなり振りむきもしない。窓に近づいて顔をのぞきこむとその眼がじっと遠くの何かを視詰めているようである。視線を辿っていくと、庭を越えた向うの離れの窓へ落ちていく。その窓からは湯上りらしいおきえさんが肌をぬいで鏡台に向っている様がのぞかれる。兄の眼はどうやらそれへ執着しているらしい。明るい電灯の下におきえさんの豊かな白い肌が冴えざえと浮き立ってみえる。化粧がすんだのか、高く手をあげて髪へ櫛をいれている。手が動くにつれて盛りあがった乳房が生まなまとした感覚をそそりたてるようである。
「須藤さん奇麗だなあ」
 兄が呟くように云った。思わずも言葉が口を洩れたという風である。
「まあ、兄さんは、いつもここからみとれていたの」とつい厭味をきかせて云うと、
「ばかな奴だなあ」
 と兄はひょいと躯を起して電灯をつけた。てれてか眉間へ気難しげに縦皺をきざんだ兄の顔はふと紀久子にいつかの父を思い出させた。
 夜分厠へ起きた紀久子が用を足して部屋へ戻りかけると、これも厠へ起きてきたおきえさんと離れの廊下のところで出あった。緋鹿の子の地に大きく牡丹を染め出した友禅の長襦袢に伊達巻き一本のおきえさんの姿は阿娜めいて昼間のおきえさんとは別人の観があった。寝乱れてほつれた髪が白い頸すじへまつわり、どうしたのか顔は少しはれぼったくみえた。裾を慌ててかき合せるようにして紀久子へちょっとお辞儀をするような恰好で厠へ入っていった。不思議に眼だけが吸われるようにおきえさんの色彩についていって厠の戸口で止まると、そこから離れの部屋を窺うように、いっ時息をひそめた。微かに父の寝息が洩れてくるように思われた。だが、もしかしたらそれは自分の呼吸の激しさかもしれない。冷めたくなった足裏に促されて紀久子は自分の部屋へ入った。ふと自分がこの間まで寝間にしていたその部屋に父とおきえがやすんでいる。――妙にそれへこだわって、どうしてもねむれない。想像が、鉛のように鈍った頭の底からつぎつぎと現われてくる。そして、この想像の跳梁に身をまかせている自分を忌々しいと思いながらも、どうしようもなくそこから抜け出せないのだった。
 その翌朝はへんに父を避けたい気がした。それでいて、まともからずけずけと眺めてやりたい気もした。いつものように父の外出の支度をしているところへ朝風呂をすませた父がきて、「新聞は?」ときいた。舌がこわばって咄嗟には口がきけず、黙って父をみたままでいると、
「何んだ?」と父は眉間の縦皺を深めたいつもの気難しい顔になった。きょうはその縦皺にいつもの父の厳しさは感じられず、好色めいたものの動きをみたように思った。不興げに父はそこを立去ったが、紀久子はふと父を眺めている自分のそばめた眼つきに気が付いて厭な気分になった。自分の中に母をみたと思ったからである。そして、この母は疾うの昔から自分の中に生きていたように考えられてくる。すると、自分の中の母に気付いたのは自分よりも父の方が早かったのではあるまいか、という気がしてきた。
 父の誕生日とおきえさんの披露をかねた小宴があるというので姉はまた忙しく家へ出入りするようになった。こんどは余り粗末なことも出来まい、と気づかうのである。仕出し屋をよんでは料理の相談をする。買物をまかされて飯尾さんは出かけて行く。おきえさんが家のことをするようになってからは飯尾さんは何かにつけてその相談役という資格である。張り切った何か愉しそうなものが終始飯尾さんの顔には漲っている。
 座敷の方の片づけかたを頼まれた紀久子が金屏風を取り出しに福をつれて蔵へ入って行くと、薄暗い光線なので足元が解らなかったのか福が火鉢につまずいて転んだ。狭い階段を中途まで登っていた紀久子が「大丈夫かい」といって駈け降りると、膝をすりむいたらしい福は向うむきになって唾をつけていたが、紀久子の声に急に顔へ袂をあてて泣きはじめた。
「まあ、福は泣いたりして」と紀久子もしゃがんで起しにかかると、
「何んですか、亡くなった奥様のことが思い出されまして……」と福は肩をすぼめて一そう激しく泣いた。その潤んだ声がふいに胸にこたえた。母の落ち窪んだ眼頭に溜った涙の玉が初めて哀しく思い出されてきた。どうして、今まで自分は泣けなかったろう。それを不思議に思いながら、今は理窟なしに、ただ母を思うて泣けるのだった。
 父の誕生日の当日になった。十数人の親戚の人たちが招ばれた。紋付の羽織袴の父と、これも裾模様をあでやかに着飾ったおきえさんが正座に並んで坐った。兄が新らしい母として簡単におきえさんを紹介した。紀久子は、これはへんだ、と思った。隣りに坐っている姉を突ついてそっと訊くと、
「どうもねえ、お父様はおきえさんの籍をいれたいらしいのよ」
 と、姉も浮かない顔である。
 酒がまわってだんだん座が乱れてきた。銚子を持ったおきえさんが慣れた手つきでひとりひとりを注いでまわった。酔いがまわったのか耳根をぽっと染めているおきえさんは初いういしくみえた。紀久子の前へきた時、
「さあ、おひとつ」とおきえさんは杯を取りあげて勧めたが、ちょっとためらって銚子を下へ置くと膳越しに上半身を紀久子の方へかたむけて、
「あの、わたし悪いところはどんどん仰言って頂きたいのですけど。わたし、紀久子さんの仰言ることでしたらどんなことでもききますわ」
 と伏眼になって云った。声が少し慄えていた。やがて徐かに眼をあげて紀久子をみたが、その眼の中に涙をみたような気がして、紀久子は意外な感じに打たれた。
「奥さん、お酌だお酌だ」
 向うの席から親戚の老人が大声で呼んだので、おきえさんは紀久子へ会釈をして立って行った。その会釈には憫れみを乞うような、愛情を求めるようなものがあった。
「余興は出ないのかね」
 ざわめきの向うで酔った誰れかが叫んだ。
「どうです、お父さん、ひとつ須藤さんの喉を聞こうじゃありませんか」
 兄が隣りの父へもたれかかるようにして話しかけていった。父は兄を肘で押し返して、
「ばかな!」と低く叱りつけた。



底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「日暦」
   1935(昭和10)年11月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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