「お父様はこの頃どんな?」
紀久子が黙って苦が笑いをみせると、
「ほんとうに、早く御機嫌をなおして頂きたいものねえ」
と、姉はちょっと真顔になった。
「御機嫌がなおらないとはたのものが迷惑してよ。福なんか、この頃叱られ通しなので気にやんで夜もおちおちやすめないらしいの」
「そういえば、あの娘顔色がわるかったわ。気が弱いから叱られると思いつめるのね。お父様も……」
そこへ当の福がお昼のお仕度は何にいたしましょう、とききにきたので姉は言葉を切った。そして鉢の羊羹をひと切れ取って敷居へ手をついている福へ、
「おあがりな」と云ってさし出した。
福は艶のないむくんだ顔を心もちあげて、
「ありがとう存じます」と云った。重ねた手のひらへ羊羹を受けて直ぐ俯向いてしまったが、寝不足からきた疲れた心にこの唐突の恩恵がこたえたものか、ふいに袂を顔へおしあてて泣き出した。
「さあもういいよ。いいよ。疲れすぎたせいなんだから少し横になってごらんな」
姉は子供をあやすように福の肩を叩いた。
「失礼いたしました」と福は羊羹をのせたままの手を敷居へついてお辞儀をした。福が下がると、姉は、
「きょうはちょっと相談事で来ました」
と、膝さきの茶碗を脇へおしやって火鉢へ寄り添うた。それに促されて紀久子も膝を進めた。
「お父様のお世話をしてあげるかたをお呼びしたらと思って。紀久ちゃんは?」と、姉はちょっと窺うように紀久子をみたが、その返事をあてにしている風もなく直ぐに続けた。「この間も誠之助が来た時話してみたのです。それがお父様には一番お仕合せなのですからね」
姉の口調には紀久子へ相談をもちかけているようなところがありながら、一方、自分の考えをあくまでも押しつけようとかかっているような執拗さが感じられた。気立てが優しいばかりで並の女とかわったところのない姉に、今日は少しばかりちがったところをみたような気がして紀久子はちょっとまごついた。
「お兄さんも賛成なすったの?」
紀久子は兄の誠之助が一途にこのことに賛成したとは思われなかった。だが、それを疑う前にこの間題にぶつかった時の兄のこわばった複雑な表情を思い描き、ふとそれと同じ表情でいる自分に思いあたってお揃いの面でもかぶっているみたいな自分たちが何かしら可笑しく、頬のへんがこそばゆくなった。
「賛成するもしないも、お父様の御機嫌をなおして
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