さすっていた。
「こう寒むくてはお小用が近くなってね」
母は独り言のように云った。
蒲団の裾へまわって湯たんぽの加減をみていた紀久子は「え?」と聞きかえした。
「いいえね、母様もこの分だと永いことはあるまいよ」
母は気力のない声でこう云うと大儀そうに紀久子の手をかりて横になった。
よく母は何かでひがんだような時にこんなに云うのだった。それがいかにも母そのものをおしつけられているように聞えて、紀久子は妙に意地の悪い心もちになって聞き流しにするのが癖になっていた。今も紀久子が黙っていると母はどういうつもりか皺めた顔を何度も手で撫でおろすようなことをしながら、
「母様がいなくなったら家の人たちは大っぴらに騒げますからね。ほんとうに、永い間気づまりな思いをさせてすまなかったこと」
と誰れにともなく云った。声がへんに潤んできたようなのでそっと顔をみやると筋ばった手が眼のあたりを覆うている。何んと云うたものか、と紀久子はちょっと惑った。そして「それは母様の思いすごしよ」と、つい慰めるように云ってから、これではいけない、と気付いた。母が待っているのは別の返事である。それが分ると口をきくのが億劫になってきた。いつものように母の枕元に坐り徐かに髪を梳いてやると、やがて顔から手を落して静かな寝息をたてはじめた。眼頭の窪みに溜った白く光る涙の玉をみていると何んとも云えない程哀しくなってくる。泣きたいようである。けれど、その感動には何やら乾いたかさかさしたものが交っていて、それが紀久子の泣きたい心を阻止している。そして、白く光る母の涙をじっと視詰めながら、その涙を羨やましい、と思った。
父と姉の結びつきを知っている母が、姉とおきえさんの交渉に感付かないはずはなかった。姉が隠しごとをしている。その不満がしぜん飯尾さんへ洩らされる。姉が皈ったあとなど、母と飯尾さんは火鉢ごしに額をつきあわせるようにしてひそひそ話しあっていることが度々であった。常は無口な母もおきえさんのこととなると余程癇にさわるとみえて、その声音が気色ばんでくるのが分る。聞き手になっている飯尾さんの尤もらしい表情には母を憫れむような恩恵を施すような微笑が優しく動いている。
「たかがそれ者[#「それ者」に傍点]上りの女ではありませんか。相手になさるな」と片手を振って母の話を払いのけるような恰好をする。母の興奮が少しずつ
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