ど楽しみな昼食もそこそこに切り上げて書きづめだった。右上りの、力を入れて書くのが癖だったので、慣れないうちはよくガラスペンを折った。墨汁の染みた海綿にペンを引っかけて容れ物を落したり、粗忽な良人はよく失敗《しくじり》をした。たびたびのことなので用度係りへ請求するのに気兼ねして、しまいには家から持ち出した化粧クリームの空瓶を海綿入れにしていた。事変になってからは事務が殊のほか輻輳して、どの係りも追い立てられるような忙しさだった。役所の建物は古く薄暗くて、各係りの机の上低く朝から電燈がつけっぱなしになっていた。良人の係りでは謄本や抄本が日に何十通となく出た。この頃は中商工業者の転業失業のためにも謄本がよけい出るようになった。居残りが続いた。家に戻って晩い食卓につきながら箸がうまく動かせないで、良人はしきりと指を揉んでいることがあった。
「手が馬鹿になった」
 不審がる清子へ良人は笑いながらこう言って、右の手くびをカクンカクン振ってみせたりした。
 墨汁で顔まで汚したり、袖カバーをはめたまま戻ってきたりすることがよくあった。このカバーは清子のお手製だった。買ったものは品が弱く、すぐ破いてくるので、清子は姑の不用になった毛繻子の帯をもらって、二つも三つも丈夫な袖カバーをつくっておいたのだった。
「今日はね、おかしな結婚届があったよ。嫁さんも婿さんも操っていうんだがね」
 役所の中のことはあまり口にしないほうだったが、それでも時たま思い出し笑いをしながら姑や清子を相手に話した。
「尤も、操だからいいようなものの、これが有馬省君とせんさんじゃあ、夫婦喧嘩が絶えやしない。ありましょう、ありませんで始終角突き合いだ」
「なんですの、それ、落し話?」
 清子はくつくつ声をたてて笑った。謂われを聞かせられて姑も一緒になって笑った。
 いろいろな届出がある中で良人がわずか張りを覚えるのは婚姻届を扱うときだった。
 省線で通勤していた良人は、朝の電車の雑沓ぶりを帰る早々演じてみせたりしては姑や清子を笑わせたものだったが、殊に乗換場になっている新宿駅ホームの殺到ぶりは、小男の良人に言わせると「呑まれっちまう」ほどの人なだれで、うっかり眼ばたきも出来ない。眼ばたきしている間に揉み出されるという。良人は弁当箱を両手でしっかりと胸に抱いて、雨傘を持っているときは雨傘も一緒に抱いて、ちょうど手無しの達磨といった恰好で押し乗せられる。「大胆に! 敏捷に! そして細心に!」というのが良人の、雑沓時の乗車モットーだったが、いつだったか、うかと手ぶらでいて引きもがれそうな目に会ってからというもの、良人はいよいよこのモットーを振りかざし、特に「細心に!」と肚に力をこめて自分に言い聞かせていた。
「今朝なんかね、俺の前にいた学生の胸のとこに納豆の豆がくっついてるんだ。教えてやろうにもどうにも……」
 乗ったが最後身動きが出来ないという。顔を曲げたら曲げっぱなしで運ばれて行く。小男の良人は人の息、それも味嗜汁臭い息を吐きかけられながら達磨になって凝っとしている。
「いっぺん連れてってやりたいよ。殺人的雑沓さ。お前さんなんか袖も何も引きちぎられちまう」
 良人は得意なときには目玉を剥いて右の怒り肩をちょいと聳やかす癖がある。このときも清子は良人の剥き眼を見て、人混みに揉まれているのにこの人は一体何が嬉しいんだろうと、おかしな気がした。
 良人のことで清子が苦労したことと言えば毎朝つめる弁当のお菜《かず》である。いくら塩鮭《しゃけ》が好きだからといっても、そう毎日塩鮭ぜめにするわけにもいかない。惣菜屋から買ってきたものは良人が好まないので清子は前の晩からいろいろと頭を悩ませる。金ピラ牛蒡にしたり、妙り豆腐にしたり、前の晩自分の分をこっそり取りのけておいたコロッケなどを詰めてやったりする。時には良人も役所で饂飩をとって我れと我が身に奢ってやったが、「二杯も食われちゃ間尺に合わない」と饂飩好きな自分の口に厭味を言って、やっぱり塩鮭入りの弁当を持参した。
 この弁当をつかうときが良人にとっての一番の楽しみだった。炭不足の話が出る。酒が手に入らぬ話が出る。菓子を買うのに行列の中に入って一時間以上も立ちん棒をした話が出る。けれども物資不足からくるこの頃の切り詰めた生活の簡易さは、この役所に勤めているほどの人たちには今更こと新しく取り立てるまでもなく、結局、慣れた手頃な暮しなのだった。
 向い側の寄留係りはよく飽きもしないで煮豆を詰めてくる男だったが、女学校へ行っている娘があって、それが弁当の世話をするらしい。思いがけず玉子焼が入っているときなど、風《ふう》のあがらない薄髭をにやにやさせて蓋に一と切れのせて、こっちへも勧めてよこした。食べ物の話がはずんだ。鯨の赤肉の栄養価値を説くものがあっ
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