母親の声が遠くのほうから聞えてきた。澄んだ空気の中にその声はこだまして長く尾を曳き、いつまでも空に漂うているようだった。
 部屋の横手は一段下って湯殿へ通じる渡り廊下になっていた。それだけ低い屋根をかぶっているので、炬燵のところからは時たまそこを通る人の足許が眺められるだけだった。姑が湯へ行っている間、清子はなすこともなく呆やりと、そこへ眼を遣っていた。しぜん、そこへだけ眼がいくのは、何か気羞かしかった。思いがけなく小諸の駅で見た鳩が思い出された。二羽連れ立っていた睦まじさが眼に沁みていた。口笛と一緒に元気な足音がして、下の廊下を茶縞丹前の人が通りすぎた。丹前が短かいのか、着方がぞんざいなのか、湯あがりの真っ赤な毛脛をむき出しに、スリッパからはみ出た足も静脈を浮きたたせて如何にも健康そうだ。清子は火照った気持で聞くともなしに足音を聞いていたが、ふいに叩かれたようにまごついて、姑を迎えに湯殿のほうへ降りて行った。
 その夜、久しぶりに清子は良人の夢を見た。亡くなってから初めて見る夢だった。良人は寝癖の、清子の耳たぼを優しくつまぐりながら、もつれたような声で何かくどくどと話しかけた。その長話にいらいらして、夢の中の清子は不機嫌に黙りこんでいた。
 霊泉寺の朝は小鳥の声で明ける。淡緑りの背を光らせて飛んでいる鶺鴒がまず眼にふれた。飛びながらツツツ……と啼く。屋根に止まり長い尾で瓦をたたきながらツウン、ツウンとはりあげる。澄んだ美しい声である。水を飲みに池のふちに下りたのも尾でたたきたたき啼いている。池には紅葉の木が枝を張り出して、根かたに篠笹がひとかたまり、明るい陽射しの中に福寿草が含羞《はにか》むようなすがたで咲いていた。
 朝食前、清子は姑に添うて散歩に出た。四五軒の湯宿と雑貨や駄菓子などを商う小店と、あとは川を挟んで飛びとびに農家があるばかりだった。山寄りの小高い寺の建物は、ここには似合わぬくらいの宏壮さである。朽ちかけた山門、空洞《うつぼ》のある欅の大樹、苔むした永代常夜燈、その頂きの傘に附してあるシャチも※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]ぎとられたり欠けたりしていた。文政六年の建立とあるが、老常夜燈の貫録は、その全身の深苔にはっきり見られるようだった。「霊泉禅寺」と大きな額が本堂の正面にかかっていた。閉じこめたままで幾日も過ぎているらしい。雨戸の隙間
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