」
茶を注いでやりながら姑はつぶつぶの光った眼で西尾を見あげて笑った。
「そうだとも、おっ母さん。今頃は先生食い放題だな」
西尾は年寄りの顔から眼を逸らして、無暗と茶を飲んでいたが、清子が上ってくると声をかけた。
「奥さん、田舎さ帰ったら当分はお寂しいこってしょうね。なかなか東京が忘れられませんよ」
「何しろこちらが長いんですものね。でも田舎へ帰ると子供相手ですから、まぎれますわ」
「ああ、それじゃ学校のほうお決まりですか」
「助役さんにお願いしてありますから……それに校長先生からも大丈夫だってお手紙いただきましたから」
「あの校長さんは親切だからなあ。僕は、高等科で教わったが……赤髭コって渾名でね、先生よく水っ洟をチカチカ光らせてやって来たもんだ」
小学校時代の話になった。西尾も清子も郷里のその小学校の出身だったけれど、当時の訓導で今もなお残っているのは、その赤髭の老校長だけだった。
「五城目が駄目だったら馬川か飯田川の学校へ頼んでみるつもりでしたけれど……飯田川には、わたしがいた頃の先生方もまだ大抵残っていますよ」
清子は結婚前その飯田川の小学校で代用教員をしていた。
帰郷後の清子の身の振り方については、実家の両親や親戚などがかなり喧ましく干渉するのだったが、清子は姑を守って学校に奉職することに決めていた。孤独な姑を残してどこへ行く気にもなれなかった。
「そうそう、忘れていた、さっき雑誌が出来てきてね」
西尾は上り框の鞄を引き寄せて、印刷油のプンプンする「栄養と家庭」を取り出した。
「鈴木君にもらった原稿が載ってますよ。先々月の二十五日だったから、そうだ、寝つくちょっと前ですね。すると、これが絶筆というわけかな」
パラパラと頁をめくっていたが、ひょいと立つと、床の間の遺骨の前にのせた。
「おっ母さん、この机も貰ってよかったんですね。しめしめ」
西尾は側の机をコツコツと叩いてみたり、抽出しを開けてみたりした。
「ほう、いたずら書きがしてある。……何んだ、幾何の問題か」
「何せ、あれが中学さ入った年、買ってやったもんだから……」
「すると、もう二十六七年もたっていますのね」
清子も覗きに立った。
「気の利いた貉《むじな》コだば化ける頃ですべ」
姑はこんなことを言って、二人を笑わせた。
荷物をくくり、あとは明朝のことにして西尾が帰ってしまうと、程
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