膝をついて見送っている老夫人を振りかえって、
「名医はまだ起きんのか?」
 ときいた。大学の医学部に学んでいる息子の慶太郎を、こんな愛称で呼び慣れている。
「なんですか、昨夜は遅くまで起きて居りましたようで……」
 夫人のとりなしには構いつけない容子で、
「慶太郎! おい、慶太郎!」
 階段へ向って大声に呼ばわりながら、握っていた籐のステッキで性急に沓脱石を叩いた。
「ひどいなあ、お父さん、ゆうべは僕、徹夜だったんですよ」
 寝衣の前をかき合せて慶太郎が渋りながら降りてきた。
「いかん、いかん、医者が徹夜ぐらいでへこたれて、どうする」
 唐沢氏は笑みを含んだ顔で大きく呶鳴っておいて、
「そんな怠けようでは、立派な国手になれんぞ」
 わっはっはっ、と笑いながら玄関を出て行った。
 頭を掻きながら慶太郎は、いつになく上機嫌な父を腑におちぬ顔で見送っていたが、やがて、廊下つづきの応接間へ莨を探しに入っていった。老夫人も続くと、啣えた莨へ燐寸を擦りかけた慶太郎の眼が窓の外へ吸われたように動かない。その眼を辿って、夫人が何気なしに外を見やると、何かの忘れもので車庫へでも駈けつけたのか運転手の姿は見えず、自動車へ片足をかけた唐沢氏が屈みこむような恰好でおしもを引き寄せ、冗談を云いかけているらしい。袂を口へあてておしもがうしろ向きになって笑いこけると、唐沢氏は眉の開いた悪戯っぽい顔つきで、おしもの臀のあたりをステッキで突っついた。咄嗟に、「ああ、おしもだったのか」と夫人は意外な感じに打たれたが、それで、若やいだ良人のこの頃が読めたような気がした。
「まあ、お父さまは……」
 何気ないふりで云いながら、ふと、慶太郎の視線を防ぎ止めたい衝動から、夫人は窓を隠すようにして立った。その肩ごしに、慶太郎はなおも物好きな眼つきで外を視ていたが、
「親父も相当なもんだ」
 独り言に云ってはっはっと明るい笑声をたてた。
 その慶太郎を夫人は扱いかねたように、少時、呆んやりと眺めたままである。羞恥から眼を外すか、躍起になって憤慨するか、このふたつの慶太郎しかこなかった夫人には、今の笑声が思いがけぬことだった。見せたくないものを見せてしまった。そんな気がしきりにする。自分の心の動揺よりも先きにきたのは、それを視ている慶太郎の眼だった。その眼を何処かへ押し隠したい心でうろうろした。あのような父を慶太郎は何んと視て、笑ったのだろう。これまで、良人の情事を慶太郎へだけはひた秘《かく》しに秘してきただけに、夫人は今をとりかえしのつかぬことに思い、それを見せたのが自分の所為《せい》のように愧入った。ふと、夫人は、息子の眼を防ぎ止めることに躍起になっている自分が、実は、それにかずけて良人を護っているのではなかろうか、と疑う。永い間、良人の情事を自分の落ち度にして、人の眼を怖れ憚かってきた夫人には、今では、良人を背に庇うことがひとつの仕癖になっている。良人に愛情をもっているからというよりは、そうすることが妻のつとめだと信じている。子供の頃に、放蕩の父を扱う母の態度を見覚えているので、それを習おうとする心が、いつか、自分をその頃の母に仕立てあげている。けれど、その心を良しとし、それに準じたつもりの自分が、時に、お面でもかぶっているようなよそよそしさで眺められてくる。そして、因襲に馴された自分の、これが仮装の一生か、と夫人は暗い思いに閉されるのだった。

     二

 おしもが唐沢氏の寵をうけていたということは、老夫人の伊予子にとっては全く思い設けぬことであった。これまで唐沢氏の関りをつけてきた婦人がどれもそれ者[#「それ者」に傍点]であっただけに、おしもと気付いた夫人の愕きは大きかった。不意に、足元から火が燃えたったような遽しい心になって、おろおろと取り乱している自分に気付く。そのくせ、意地悪く澄んだ監視の眼が、おしもの立居を見のがさじと追うている。十九にしては大ぶりな体つきのおしもは、ぼってりと盛りあがった乳房が割烹着の上からあらわな形をみせて、それが、俯向いて息忙しく雑巾がけなどをするたびに、ブリブリとゆれてみえる。老夫人には、そのさまが何んともいえず厭らしく動物的なものに感じられる。顔をそむけ、唾を吐きたいような衝動に駆られる。けれど、不思議に眼だけがおしもの体を離れようとはせず、知らず知らずに八つ口から入った手が萎びたわが乳房を探り、骨々したわが胸を撫でてみる。そして、「老齢《とし》には勝てない」としみじみ自分へ云いきかせ、諦めさせようとするのだが、眼の前の活々《いきいき》としたおしもの体へ視線がいくと、不意に激しい妬心が頭をもたげてきて、それを圧し殺そうとする心から、夫人は常よりも穏やかな口調で、
「ほれ、そこに塵が残っていますよ。もういちど拭きなおして下さい」
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