びにぎんは悩ましくって溜息が出る。そんなとき、無性に、寺島捨吉が慕わしかった。
ぎんがこの小間物行商人と馴れ染めたのはレース工場にいたときのことである。大阪にあるその工場の女工になったのは十八の齢であった。北秋田の潟に近い小さな町でぎんは生れた。父親は町役場の小使をつとめ、母親は水汲み下女だった。ぎんは小学校を中途でやめさせられて校長先生の家へ子守りにやられた。
校長先生には「赤髭コ」という諢名がついていた。寒中でも真っ裸になって井戸端で水をかぶる人だった。赤ん坊をおぶったぎんが学校へ遊びに行くと、子供たちが寄ってきて、こんな悪口を云うのだった。
「お前《めえ》とこの赤髭コな、けさ、髭コの先さタロッペ(つらら)下げてきたど。」
そして「赤髭コ、赤髭コ、髭コのタロッペ塩辛《しょっぺえ》ってな。」とはやしたて、雪の中をどこまでも追いかけてくるのだった。
夏になると校長先生の庭にはいろいろな花が咲いた。おいらん草だの百日草だの雛菊だのが咲き盛るのだった。校長先生は越中に腹巻といういでたちで、暇さえあれば草花の手入だった。コスモスの花時になると、子供等が垣根に背伸びして、よくとりにきた。先生自慢の輪の大きなコスモスだった。それが垣根のぐるりにゆさゆさ揺れていた。子供の頭がかくれてしまうほど背の高いコスモスだった。
父親の都合でぎんは校長先生の所から暇をもらい、酒屋の小女中にやられた。町に「ガラ八の内儀《じゃっちゃ》」という看護婦や女工や女中などの口入れを商売にしている寡婦がいた。十六の春、ぎんは近在の娘たちといっしょにこの「内儀《じゃっちゃ》」に連れられて大阪へ出た。紡績の女工になった。同じ町から出てきた友だちに誘われるまま一年半ばかりの後、レースの工場へかわった。そこで十二年あまり働いた。
大正の初め創業したこの工場は、当時輸入した二台の機械でどうやら覚束ない歩みをつづけてきたが、次第に活況を呈して、ぎんが退くころは工場の建て増しをしている最中だった。普通、服地とか袖口とか裾よけとかになるレース地は、絹物、ジョーゼット、木綿、人絹などいろいろあって、機械にかける前、十ヤールに縫合せる。機械済みのを仕上げのミシン場へまわして、あとは晒しに出す。ぎんは入りたてミシン場で働いた。それから機械場へまわされた。一台に二人、裏と表につくのである。糸の切れ、針の折れを視て歩く。眼玉を皿にして注意する。しょっちゅう片側歩きなので、しぜん肩が凝ってしまう。六台に一人あたり、班長が休みなしに見廻っているのでくさめ[#「くさめ」に傍点]をするまもない。ぎんものちには班長になり、女では一人っきりの監督にまで上ったけれど、機械に附き添う愉しさは格別であった。
工場にはたった一台、米国から取り寄せたという特製の機械があったけれど、これはぎんでなければ動かせなかった。他の者では機械がいうことをきかないのである。無理をして針に刺されるのが怖さに、誰れも手を出さなかった。これは織目の緻密な総レースをつくり出すのである。仕上り品は主に極上品のカーテン地として売り出された。ぎんは、この機械のことで明け暮れた。どんな小さな埃りでも指のはらで丁寧に払った。針の一本一本を唇でためした。そして、機械にかける前、糸を舐めるのに精をきらした。舐めると糸が切れないという「まじない」を故郷《くに》の年寄衆にきいていたからである。針の間からゆるやかに大巾の模様レースが流れ出してくる。白いこの流れに機械の騒音が吸いこまれて、ひとり静けさがここにばかり凝っているようである。視戌っているとしんしんとした静けさが心の奥底にまで沁みる。すると、心の奥底にもまた白い模様レースが流れはじめる。ぎんは、ぼけたように機械を忘れて立っていて、よく小突かれた。監督になってからも、この機械からは離れられなくて、ずっと掛持だった。
機械に引き添いながら、ぎんはいろいろな模様レースを心の中で織った。子供のころ見なれた山の端の茜雲や、青空にふんわりとかかった白い薄雲や、いつかの明方見たことのある遠い空の燃えるようなだんだら雲を次ぎつぎと織っていった。それから夏の雨上りの虹の橋や朝露のつぶつぶを光らせた浅緑の草むらを織ってみたいと思った。その草むらにとまっている玉虫や羽根のすけてみえるかげろうを織りこんでみたら、どんなに綺麗かと思う。そしてまた虹の橋に霧がかかったところや梢を鳴らす優しい風の音もレースに織ってみようと、胸をふくらませるのだった。
ぎんが工場づとめをしている間に両親が次ぎつぎに死に、たった一人の兄は北海道へ渡って鉱山入りをしたまま消息を絶ってしまった。チブスで動きのとれなかったぎんは、とうとう親の死に目にも会えなかった。寺島捨吉と知り合ったのは、こうした不幸のあとだったのである。
その頃、工場には女工たちのために三棟の寄宿舎が出来ていた。外出しにくいので、しぜん行商人が入り込む。捨吉は小間物類一切から下駄草履のようなものまでつづらに詰めては商いに来る。色の浅黒い三白眼の、ちょっと小粋なところのある男だった。広島弁で面白いことを云っては笑わせる。自転車につづらをつけた捨吉の姿が通りに見え出すと、女工たちは窓から乗り出したり手を振ったりしてキイキイ声を張り上げる。なかなかの人気だった。
この捨吉が、ぎんへはこっそりと並ならぬ優しさを見せるのである。毛ピンやネットのようなものを負けてくれたりハイカラな文化草履を卸値で分けてくれたりする。ぎんの手足を綺麗だとほめて顔が火照るほど嬉しがらせたりした。
或る日、非番でぎんが寝転んでいるところへ、つづらの捨吉が入って来た。部屋の者が出はらっているのを見て、あんたにだけ聞いてもらいたい話がある、と声を低めて、身の上話をはじめた。自分ほど不幸な男はいない、子供の頃ふた親に死別して、因業な伯父夫婦にこき使われた。女房運が悪くって、最初のには逃げられるし、二度目はそり[#「そり」に傍点]が合わなくて別れるし、三度目のにはつい先達て死なれてしまったと、眼をうるませ、おろおろ話した。孤児同様な我が身にひきくらべて、ぎんは貰い泣きした。男の唐突な涙もろさ、おろおろした気弱さに、心が動かされるのだった。
そんなことがあってから、ぎんは、つづらの捨吉を特別な優しさでみるようになった。そして休日にはどきどきして媾曳の場所へ急ぐのだった。人出のない郊外へ、男は出たがった。逢うといつもおろおろ声で「僕ほど不幸な男はいない。」と愬え、ぎんを当惑させた。男の涙もろさや気弱さは、ぎんにとっては愛情の誓いになった。
夜に入ってぎんが帰りを気にし出すと、男はびっくりするような剣幕で引き止めた。暗い畑道を歩きながら男に手をまかせ、ぎんは不安と臆病さからしょっちゅうどきどきしていた。その臆病さが身を守って、あやまちもなかった。男は、堅人だと云ってからかった。女のそうした身の堅さに却って掻き立てられ、いよいよ執心した。
工場の中でも評判になって居たたまれず、ぎんは捨吉と港寄りの小林町に家をもつことになった。一人者だときいていたのに、暮してみると男には子供があった。三度目のおかみさんの子だったが、死別したはずのそのおかみさんもしゃんしゃんしていて、今は堺のほうの旅館で働いているということまで分った。子供はどこに預けておいたのか、間もなく男が引き取って来た。ようようつかまり歩きをし出したばかりの男の子で、俊雄と呼ばれていた。
男が大酒飲みだということもだんだん分った。酒癖が悪くて喚き出すと手に負えなかった。三白の眼をすえ「馬面《うまづら》」、とか「シャグマ」とかいって、ぎんを呼びたてるのだった。小間物の行商もとかく怠けがちだったが、そのうちどこで仕入れるのか信州綿というのに肩代りした。こんどの行商は気骨が折れる、一軒一軒で口上だからと、捨吉は不機嫌だった。玄関に上りこむなり荷をひろげて、山繭の屑糸からとれた丈夫な絹綿だと云い、足でふんづけたり手綱によじってみせたりして、「これこの通り!」と買手へ請合顔して見せるのだった。綿の中味は人絹屑の加工物をつかい、どうせ知れたまやかしものであった。どこで手に入れたのか、知名の人の名刺を勿体ぶって財布から取り出して見せ、こんなに支持してもらっているからと、買手の度胆を抜いてかかる。名刺には子爵男爵と肩書のついたのもあった。それほど儲けにもならず、寝食いの日が多かった。
工場の友だちが遊びにくるたびに、ぎんは肩身の狭い思いをする。はじめっからあんたの貯金が目あてだったんだからと、その友だちは親身になって忠告した。今のうちに別れないと飛んだことになるとも嚇かした。しかし、ぎんは別れる気がなかった。男は仕入をすると云っては、あらかた金を持ち出した。家をあけることが多くなった。たまにくつろげば酔って「おい、シャグマ」と喚き立て出て行けがしの愛想づかしだった。
どのような男の仕打も、ぎんには我慢が出来た。子供のために堪えられたのである。子供はぎんになついて、可愛かった。まわらぬ口で母チャン母チャンと呼びなれていた。ねむくなると、涎れの顔をぎんの胸にこすりつけてきた。そしてから[#「から」に傍点]乳を吸って機嫌よく寝入った。ぎんはこの子が可愛くってたまらなかった。朝から晩まで、子供のことでいっぱいだった。人に会いさえすれば子供自慢だった。
「うちの子は、まあ、なんて早智慧なんでしょう。けさもね、鳩ポッポを教えたらもうすっかりおぼえこんじまって、さあ、俊ちゃん、小母さんにポッポッポを唱って上げれせ。」
子供が涎れの口をとがらせて覚束なげに唱い出すと、ぎんはもう眼をなくして武者ぶりつき、子の顔や手や出臍のおなかにまで口をつけてぶうぶう吹いてやるのだった。
或る日、めずらしく捨吉が子供を抱いて銭湯へ行った。帰りの遅いのが気になって覗きに行くと、とっくに上ったという。濡れた手拭いとシャボン箱が番台に預けてあった。それっきり父子は姿を見せなかった。親類だという夫婦者がきて、世帯道具の一切を荷車につけて行った。子供の母親と縁が切れていなかったと初めてきかされ、ぎんは途方に暮れた。子供を思って泣いた。
しばらく独り暮しをしていたが、友だちに勧められて上京することに決心した。東京で経師屋にかたづいているその友だちの叔母を頼って行くことになった。レース工場へは義理が悪くて帰れなかった。
郷里《くに》者の経師屋は、姪という振れこみで、ぎんを「あたりや」に世話した。時々、親類顔で覗きにきては、暮し向きの愚痴を並べ、小遣いを借りて行った。それもだんだん狎れっこになって、月末には無心を欠かさないようになった。
誰れにでもぎんは従順だった。人の言葉に従ってさえいれば間違いがないと信じ切っていた。そして始終心の中に誰れかを立てておかないと気がすまないのである。子供のころは校長先生や酒屋の旦那様だった。工場の機長だったこともあるし監督だったこともある。捨吉父子はいっとう長く心の中にいた。そして今は「あたりや」の主人夫婦ほど有難い人はないのである。
別れて十年あまり、俊雄はこの春中学へ上ったという。父子の者はいま広島の海江田市に住んでいる。ぎんが「あたりや」に落着いて一年ばかりたつと、捨吉から手紙がきた。そのころはまだ堺にいた。工場の友だちに居所を訊き合せたということが分り、相変らず愚痴だった。ぎんは男の涙もろさを思い出した。おろおろ声が聞えるようだった。貧乏している子供が可哀そうでたまらなかった。そして、有り合せをすぐに為替に組んで送ってやった。それが癖になって、今では子供の学費という体裁で毎月せびられている。
「お前さんのようなお人好ってあれあしない。赤の他人にそんなに貢いでさ。笊に水だよ。」
主人夫婦はどうにかして、送金を思い留らせようとして、いろいろに意見を云った。ぎんはニコニコして聞いているだけだった。
広島へ行ってからの捨吉は家屋売買のブローカーのようなことをしていた。手紙には子供と二人っきりの佗び暮しだと書いてあったが、工場の友だちからの
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