者ぶりつき、子の顔や手や出臍のおなかにまで口をつけてぶうぶう吹いてやるのだった。
 或る日、めずらしく捨吉が子供を抱いて銭湯へ行った。帰りの遅いのが気になって覗きに行くと、とっくに上ったという。濡れた手拭いとシャボン箱が番台に預けてあった。それっきり父子は姿を見せなかった。親類だという夫婦者がきて、世帯道具の一切を荷車につけて行った。子供の母親と縁が切れていなかったと初めてきかされ、ぎんは途方に暮れた。子供を思って泣いた。
 しばらく独り暮しをしていたが、友だちに勧められて上京することに決心した。東京で経師屋にかたづいているその友だちの叔母を頼って行くことになった。レース工場へは義理が悪くて帰れなかった。
 郷里《くに》者の経師屋は、姪という振れこみで、ぎんを「あたりや」に世話した。時々、親類顔で覗きにきては、暮し向きの愚痴を並べ、小遣いを借りて行った。それもだんだん狎れっこになって、月末には無心を欠かさないようになった。
 誰れにでもぎんは従順だった。人の言葉に従ってさえいれば間違いがないと信じ切っていた。そして始終心の中に誰れかを立てておかないと気がすまないのである。子供のころは校長先生や酒屋の旦那様だった。工場の機長だったこともあるし監督だったこともある。捨吉父子はいっとう長く心の中にいた。そして今は「あたりや」の主人夫婦ほど有難い人はないのである。
 別れて十年あまり、俊雄はこの春中学へ上ったという。父子の者はいま広島の海江田市に住んでいる。ぎんが「あたりや」に落着いて一年ばかりたつと、捨吉から手紙がきた。そのころはまだ堺にいた。工場の友だちに居所を訊き合せたということが分り、相変らず愚痴だった。ぎんは男の涙もろさを思い出した。おろおろ声が聞えるようだった。貧乏している子供が可哀そうでたまらなかった。そして、有り合せをすぐに為替に組んで送ってやった。それが癖になって、今では子供の学費という体裁で毎月せびられている。
「お前さんのようなお人好ってあれあしない。赤の他人にそんなに貢いでさ。笊に水だよ。」
 主人夫婦はどうにかして、送金を思い留らせようとして、いろいろに意見を云った。ぎんはニコニコして聞いているだけだった。
 広島へ行ってからの捨吉は家屋売買のブローカーのようなことをしていた。手紙には子供と二人っきりの佗び暮しだと書いてあったが、工場の友だちからの
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