…黒檀もここいらへんになりますと上《じょう》の上でございます」
三昧堂は乗り出して簾屏風の蔭から中低の顔をのぞかせて金歯をチラチラ弁じたてた。
師匠は額縁を取り出してコツコツと敲いて音を試したりしていたが、軈て立って、うしろの戸棚から金布《かなきん》をかむせた小枠をとりおろした。
「お手伝いいたしましょう」
と言って、三昧堂は上りこんだが、師匠は人手をかりず枠糸をとりのけて、ながいことかかって額縁に嵌めこんだ。柱のところに立てかけておいて、すざって眺めていられる。
「寿女さんの形見だ。……どうです?」
師匠は額に眺め入りながら徐かにこう問うた。
それは横一尺に縦二尺ばかりの、糸錦の地に木居《こい》の若鷹を刺繍したもので、あしらった紐のいろは鮮やかな緋色であった。若鷹は茶褐色の斑《ふ》に富み、頸から胸にかけての柔毛《にこげ》は如何にも稚を含んでいて好もしいが、その眼、嘴、脚爪の鋭さが何んともいえず胸を衝く。わたくしは寸時眼を逸らしていたが、また、視入った。
この若鷹は斑《ふ》の彩色、誇張しているとさえみえる形の一種のそぐわなさからも、実際鷹狩につかう鷹とは凡そかけはなれている。よくよく眺めると、これは一つの図模様としての美しい鷹である。円く黄色い眼も曲がった嘴も、それだけ視ると何等現実的な気韻をもっては迫ってこない。むしろ、図模様の一部分としての微妙な糸の巧みさに打たれる。しかも尚よく眺めると、この美しい図模様としての鷹は、生きて、鋭い眼で観る者を射る。いまにも羽搏き飛ぶかとみえる気韻をはらんでいる。
わたくしは作者のことを考えた。作者の魂の烈しい息づかいがここに織り込まれている。この鷹は、その作者の魂をうけて生きている。図模様の裡に生きている。
「お師匠さん……」
銀三の眼にもこれは初めてらしかった。敷居のところから動かないで額に視入っている。思わずも、こう声が洩れたようであった。
師匠は振りかえったが、そっと逸らして、また額へ眼を戻した。
わたくしは、ふと、垂れ下った緋の房の先のほうが、糸が粗くなっていることに気が付いた。そこだけ、わずか糸の隙間が出来ている。房がわれているようにみせるために故意にそうしたものとも思われないので尋ねると、師匠は、
「ああ、この房かね……」
それなり黙ってしまわれた。
三昧堂がひとしきり世辞をのべたてて、手前褒めをして、間もなく帰ってしまうと、師匠はこう言われた。
「この房を仕かけて亡くなったのだが、……裏にまだ針がついている」
師匠は額を引き寄せて、うしろの止め板をはずして見せて下さった。ちょうど仕かけた房のところから三寸ばかりの緋の糸が下っていて、その先に、針は銀紙に幾重にも包まれて、なおその上を糸で絡らんであった。
「折角のものを錆びさせるといかんからな」
師匠は面映ゆげにこう言うて、銀紙の針をつまんだりしていられたが、わたくしの眼には、その針を手にしてひたむきに屈みこんでいる寿女さんの姿ばかりが迫るのであった。
種村の寿女《すめ》さんは佝僂《せむし》であった。母親のはなしに、寿女が十四の時、腰が痛い痛いと喧しく愬えるので、近くの灸点所へ連れていって、どうやら痛みをとめてもらったものの、それから間もなく腰が抜けるようだと喚き出されて、これはどうも下《しも》の患いらしいと独り合点して、それからは人目を憚り、長い間漢方医がよいをさせていたという。脊髄のほうを冒されて手おくれになっていると分ったのは、もう余程のちのことだったという。専門の医者にも診せず姑息な手当をしていたのも、跡継夫婦への気兼ね心からで、後添えだった寿女の母親は、腹ちがいのこの息子夫婦へは何かと引け目さを感じていた。
一家は尾久に住まっていて、塗料工場をもち相当手広く商売をしていたが、父親が亡くなると、やがて、親戚の者たちのはからいで、母娘《おやこ》は、池ノ端数寄屋町の、ちょうど、造作が入ったばかりの小店を借り受けて、荒物屋をはじめた。寿女が十七の時であった。
暮しのほうの足し前は、尾久の家から届けるようにと親戚の者たちのまえで話は決まったが、実行したのは初めの半年ばかりの間のことで、だんだん不景気を口実に途絶えがちになり、そのうちいつか歇んでしまった。
荒物の売上げだけでは凌げなかったから、仕立物処と小さな看板を出して、母娘のものは賃仕事に精を出した。母親のお針上手は知れ渡って、湯島花街《ゆしま》あたりからの誂えなどもひっきりなしにあるようになった。
母親の生き甲斐は寿女ひとりにかかっていた。不自由な姿の、いっ時も心から離れたことは無かった。母親は不具の子として寿女を扱ったことは無かった。決して、不具の子として劬わったり憫れんだりしたことは無かった。並の子供へ向けるのと同じように、使い走
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