…。僕が駈けつけた時は、もう、訳の分らない譫言ばかり言ってたんだからね。肺炎だそうだ。だが、よく、あそこまで持ちこたえたもんだ。医者も感心してたがね」
「なんだって施療院なんかで……」
と、龍子は独り言にいった。
「警察から廻わしたんだが、なんでも、錦糸堀の車庫の辺で行き倒れになっていたそうだ。尾久へでも行くつもりだったろうが。いや、尾久とは方角違いだしなあ。此処を出たのが五日で、七日の朝に病院へ運んだっていうんだから、まあ、まる二日外にうろうろしていたわけなんだなあ」
中尾は自分で茶を淹れて、熱いのをふうふう吹きながら上眼で龍子を見て言った。
「どうです、先生、出かけますか? まだ、死亡室に置いてありますがね」
龍子は不興気に頭《つむり》を振った。
「これから、また、ひとっ走りして、運び出しに立会わなけあ」
窓硝子ごしに覗いて見て、「よく、降りやがる」
そして、濡れたレインコートをまたひっかけた。
「そうそう、妙な爺さんがいたっけが、あれあ尾久の家の人かい。こっちで、もの言っても黙りこくってるし、居眠りしてるかと思って覗くと、目玉をぎょろりと開けてるしさ、危く声出すとこだったよ。なんしろ、夜っぴて、爺さんと二人っきりでさ、火もないとこに無言の行だったからなあ」
ゴム靴の釦をはめている中尾の背へ、龍子は気弱く、
「恩に着るわよ」と声をかけた。
その夜、中尾がまた立寄った。
「万事済みましたよ、先生、尾久の兄さんという人がきて引き取って行きましたがね。……どうも、あのお寿女さんて妙な娘《こ》だったなあ。此処の家も、尾久の家も、ところを明かさずじまいだったらしいが。……そうそう、あの爺さんね、なんでも元いた家の隣りの……」
「ああ、加福さんでしょう。有名な刺繍屋さんよ」
「ああ、あの人が、ねえ」
中尾は、感動をもって、寸時、黙した。
加福の師匠は、この日の午過ぎ、奥住の家に立寄ったのであった。悔みをのべて後、師匠はこう言った。
「寿女さんの刺繍されたもので、何か遺っているものでもありましたら、ぜひにも拝見させて頂きたいと思って参上しましたが」
「なんですか、鷲だか鷹だかの刺繍にかかっていたようでしたが、あれは……」
「あれは遺言で、わたくしが頂戴しました」
と、師匠はしずかに言った。「何か、他に遺っているものでもありましたらと思って……」
「ほかにと
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