のついている女中部屋を訝かって覗いてみると、枠におしかぶさって寿女が針を刺している。声をかけても気付くふうもなく、ただ、ひたむきに刺している。その容子のただならぬ一途さに、ふと、異様なものを見る気がして、龍子は怖気立つときがあった。
繍の手をよくしているということは龍子も知っていたから、これを重宝がって、半襟だの帯だの袱紗だのクッションだのに、無暗と刺繍をさせた。そして、これを知人や弟子たちへの贈り物にもした。
「ねえ、お寿女さん、こんなきれ[#「きれ」に傍点]があまっているけど、花模様か何かの刺繍してスリッパでも拵さえたらどうかしら。可愛らしいのが出来るでしようねえ」
小ぎれ箱をかきまわしていた龍子が、はずみ立って、こんなことを言うときがある。自分の思いつきに軽い興奮をおぽえて、小ぎれをいろいろに取り出して並べながら、
「お弟子さんたちへスリッパの贈り物をしようかしら。残りぎれのお手製スリッパなんて、ちょっと気がきいててよ」
弟子たちからは何かにつけて高価な贈り物が届けられるので、龍子も時には返礼をする。そして寿女は吩咐けられてクリスマスまでの一と月足らずの間に精を出して、二十足あまりのスリッパの分《ぶん》に刺繍を仕上げなければならない。かかり詰めていて、電話のベルにも気が付かずにいて、よく龍子に小言をいわれた。
龍子にかしずくこと、龍子に命じられ龍子に小言をいわれることさえ、寿女には歓びであった。龍子の傍近くに居られるということだけでも、寿女は無上の満足感動をおぼえていた。寿女にとって、龍子は、心魂を高め潤おす一つの魅力であった。寿女の眼には、その魅力しか映らなかった。
龍子の前では背をみせることが、寿女には何か臆せられた。やむを得ない用事で立たなければならない時は、冗談口をきいたり髪へ頻りに手をやったりして、龍子がそれに気をとられているまに、壁や襖に添うて何気ない風に素早く去った。
春の初めの凍てつくような寒さが続いて、寿女は感冒にかかり咳込むようになった。二三日早寝をすると、どうやら咳も止まったので気にもとめずに働いた。暇さえあれば、小枠の刺繍にかかり詰めた。これに打ち込みはじめたのは、二年ばかり前からであった。
食事が進まず、五月に入ってから二日ほどまた早寝をした。医者に診てもらってはどうか、と龍子は口では勧めながらも、あり合せの感冒薬で間に
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