に宛てた大きい封書が届いてゐた。中にはバルヂピエロの長い手紙があつた。種々《いろ/\》な事が書いてある。ジエンツアノの葡萄酒やピエンツアの無花果の事がある。それから例の不思議な事件の其後の成行がある。あの事件はそつちのためには不愉快では無かつただらうが、そつちを或る葛藤《かつとう》の中に引き入れたのは気の毒だと云つてある。兎に角客にあんな事をさせる主人は無い筈だから、主人を変に思つただらうと云つてある。今其手紙の一部を読んで聞かせよう。
「あゝ、我が愛する甥よ。御身もいつかは老の哀《あはれ》を知ることだらう。御身が顔を見なかつたあの娘を、その住んでゐた土地から、非常な用心をして秘密に奪つて来させた時、己は自分の老衰を好くも顧慮してゐなかつた。御身が来るまでにあれはもう二週間ばかり己の所にゐた。それに己はまだ一度もあれを遇すべき道を以てあれを遇することが出来なかつた。御身にも気が附いたらしかつた己の不機嫌はそれゆゑであつた。それに御身の若い盛んな容貌は愈《いよ/\》己の心を激させた。あゝ。己は御身の青春をどれ丈か妬《ねたまし》く思つただらう。此思を機縁として、己のあの晩の処置は生れて来たのだ。己はあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のゐる密室を、御身がために開かうと決心した。己はあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云ふことを、此処置で見せ附けて遣る積りであつた。それと今一つの己の予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知つたら、己の恋が褪めるだらうと云ふことであつた。己の既往の経験によれば、己は自分の好いてゐる女が別の男に身を委せたと知ると、己の恋は大抵褪めた。畢竟《ひつきやう》情人の不実を知ると云ふことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなく己がために此毒を作つてくれるだらうと、己は予期したのだ。
 己が御身の肩を押して、御身をあの暗室に入《い》らせたのはかう云ふわけであつた。然るになんと云ふ物数奇か知らぬが、己はふとあの暗室の戸口に忍び寄つて、扉に耳を附けて偸聴《たちぎき》をする気になつた。御身等二人の格闘、あの女の降服、呻吟が己の耳に入つた。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。あゝ、此時己は意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰した己の筋肉の間を狂奔して、その拘攣《こうれん》してゐた生活力を鞭うち起たしめた。己は闥《たつ》を排して闖入しようとしたことが二十|度《たび》にも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。
 あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿《えんし》嬌態《けうたい》を千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年に贏《か》ち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟《いはむろ》に入《い》ることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女には気に入るらしかつた。女は此間に己の心を左右する無制限の威力を得た。己はとう/\御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云ふことを知つてゐる。そして己を憎むと同じやうに、御身をも憎んでゐる。
 女は毎晩己にジエンツアノの葡萄酒一杯を薦める。黒ずんだ、ふくよかな瓶を繊《ほそ》い指で擡《もた》げて酌をする姿はいかにも美しい。酒は青み掛かつた軽い古風な杯に流れ入る。唇に触れて冷やかさを覚えさせる此杯を、己は楽んで口に銜《ふく》む。併し己は此酒には丁寧に毒が調合してあることを知つてゐる。女は毎目手づから暗赤色《あんせきしよく》の薬汁《やくじふ》を、酒の色の変ぜぬ程注ぎ込んで置く。己は次第に身に薬の功験を感じて来る。己の血は次第に脈絡の中に凝滞して来る。なぜ己は甘んじて其杯を乾すかと云ふに、己の命にはもう強ひて保存する程の価値がないからだ。均《ひと》しく尽きる命数を、よしや些《ちと》ばかり早めたと云つて、何事かあらう。可哀《かはい》い娘が復讐の旨味《しみ》を嘗《な》めるのを妨げなくても好いではないか。己は毎晩その恐ろしい杯を、微笑を含んで飲み干してゐる。
 併し、我が愛する甥よ。御身はまだ若い。
前へ 次へ
全13ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング