思つたのが、非常に強烈な印象を与へるので、ソロドフニコフはそこに根が生えたやうに立ち留まつた。
 雨は留めどもなく、ゆつくりと、ざあざあと降つてゐる。ソロドフニコフは踵《くびす》を旋《めぐら》して、忽然大股にあとへ駈け戻つた。ぬかるみに踏み込んで、ずぼんのよごれるのも構はなかつた。息を切らせて、汗をびつしより掻いて、帽を阿弥陀に被つた儘で、ソロドフニコフはゴロロボフの住ひの前に戻つて来て、燈火《ともしび》の光のさしてゐる窓の下に立ち留まつた。一寸見ると、ゴロロボフの顔が見えるやうであつたが、それはサモワルの横つらが燈火の照り返しで光つてゐるのであつた。ランプは同じ所に燃えてゐる。それから、さつき茶を飲んだあとの茶碗が一つと、ぴかぴか光る匙が一本と見えてゐる。見習士官は見えない。ソロドフニコフはどうしようかと思つて窓の下に立つてゐた。なんだか部屋の中がいやにひつそりしてゐて、事に依つたらあの部屋の床《とこ》の上に見習士官は死んで横はつてゐるのではあるまいかと思はれた。
「馬鹿な。丸で気違ひじみた話だ」と、肩を聳やかして、極まりの悪いやうな微笑をして云つた。そして若し誰かが見てゐはすまいか
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