夜が偉大な、冷かな美しさを以つて大地を一面に覆つてゐる。空には星が瞬《まばた》きをしてゐる。平な雪の表面が際限もなく拡がつてゐる。そして地平線には、暗い森が聳《そばだ》ち、遠い山の頂が突出してゐる。この寒さと闇と沈黙との全幅の画図が己の胸へ悲哀と係恋《あこがれ》とを吹き込むのである。
 天幕へ帰つて見ると、ワシリはもう寝てゐた。その寛《ゆるや》かな、静かな、平等な呼吸の音が、一間の沈黙を破つてゐるだけである。
 己も床の上に横になつた。併し今まで聞いた物語の印象が消えないので、久しく寐付く事が出来なかつた。
 何遍か己は寐入りさうになつたが、眠つてゐるワシリが寝返りをしたり、何か分からぬ囈語《ねごと》を言ふのに妨げられた。この男の低い、鈍い、小言を言ふやうなバスの音がたび/\己を驚かして、己に今まで聞いたオヂツセエめいた話の節々を思ひ出させるのである。譬ば己は頭の上で森の木の葉が戦《そよ》いでゐるかと思つたり、又は岩端から見下して、谷間に布いてある警戒線を見るかと思つたりする。その警戒線の兵営の上が己の目の下で、大きな鷲がゆつくりと輪をかいて舞つてゐたり何かする。
 想像は己を乗せて、狭い天幕の絶望的な闇から逃れ出て、遠く/\走つて行く。障礙のない所を吹く風が、己の頭の周囲《まはり》に戦いでゐる。耳には大洋の怒つて叫ぶ旋律が聞える。日が沈んで身の周囲は闇になつて、乗つてゐる船が海の大波に寛《ゆるや》かに揺られる。
 これは己の血が、流浪人の物語を聞いた為めに、湧き立つたのである。己はこんな事を思つた。若しあれだけの事を、牢屋の中に閉ぢ込められてゐる囚人に聞かせたらどうだらうといふのである。己は自分に問うて見る。一体あの話が己にどんな感動を与へたかといふに、己は脱獄の困難や、逃亡者の受けた辛苦と危険とや、流浪人の感ずるといふ、癒やす事の出来ない、陰気な係恋に刺戟せられたのではない。己は只自由といふものゝ詩趣を感じたのである。これはなぜだらう。又今も海や森や、野原が慕はしい、自由が慕はしいと、切に感じてゐるのはなぜだらう。己でさへ海や、森や、野原に呼ばれ、際限のない遠さに誘はれるのであるから、その愈《い》やす事の出来ない、窮極のない係恋の盃に唇を当てた事のある流浪人が、どんな感じをするかといふのは、想像し易い事ではないか。
 ワシリは眠つてゐる。併し己は色々な事を思ふので、眠る事が出来ない。この時己は、ワシリといふ人間が、所謂《いはゆる》親の言ふ事を聞かなくなつた後に、どんな事をして牢屋に入れられ、苦役をしたのだらうかといふやうな問題を、まるで忘れてゐた。己の目に映じたワシリは只青年の血気、余ある力量に駆られて自由を求めようとして走つた人間である。併しどこへ向いて走つたのだらう。
 あゝ。どこへ向いて走つたのだらう。
 この時ワシリは囈語《ねごと》に何か囁いた。それが己には溜息のやうに聞えた。そしてあれは誰の事を思つてゐるのだらうかと想像した。己は解く事の出来ない謎を解かうとして、深い物思に沈んだのである。己の頭の上には、暗黒な夢の影が漂つてゐる。
 日は入つた。大地は偉大に、不可測に、悲みを帯びて、物思に沈んでゐる。その上に一団の雲が重げに、黙つて懸かつてゐる。只遠い地平線のあたりには空の狭い一帯が、黄昏《たそがれ》の消え掛かる薄明りに光つてゐる。それから向うの遠い山のずつと先から火が一つ瞬きをしてゐる。あれはなんだらう。疾《と》うに棄てゝ出た故郷の親の家の明りであらうか。己達を、闇の中で待ち受けてゐる墓の鬼火であらうか。
 己は遅くなつてから寐入つた。

     十

 己の目の醒めたのは、おほよそ十一時頃であつたらしい。氷つた窓硝子《まどガラス》から、やつと這入つた、斜な日の光が、天幕の中のゆかの上に閃いてゐる。もうワシリは天幕の中にゐなかつた。
 己は用があつて村へ行かなくてはならぬ日であつた。そこで橇に馬を附けて乗つて、門を出て村の街道を進んで行つた。
 空は晴れて、気候が割合に暖かである。総て世の中の事は、比較で言ふのである。暖かいと云つても、零下二十度位であつただらう。余所《よそ》の国なら、極寒の時稀に見る寒気だが、この土地ではこれが最初の春の音信《おとづれ》である。この土地の極寒には、民家の煙突から立ち昇る煙が、皆蝋燭を立てたやうに真つ直ぐになつてゐるのであるが、けふは少し西へ靡いてゐる。大洋から暖気を持つて来る東風《こち》が吹いてゐるのだらう。
 この部落に住んでゐる人民の半数は、流罪になつて来た韃靼人である。けふはそれが祭をする日なので、往来が中々賑はつてゐる。そここゝで、人家の門がきしめきながら開かれる。そして中から橇や馬が出て来る。その上には酒に酔つた男が体をぐら付かせて乗つてゐる。モハメツト教徒は余りコ
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