岸に出ました。そこに人が集つてゐます。何ものだらうと思つて、好く見ると監視中の囚人です。(ロシアでは懲役になつて、刑期が過ぎ去ると、それそれの村に返して監視して置く。併し労働は監視を受けて規則通りにしてゐる。)それが肴を取つてゐます。わたくし共はその様子を見定めてから側へ寄つて行きました。「おい、どうだね。」
「うん、どこから来たのだい。」
こんな風に詞を交して、いろんな事を話す内に、その仲間の一番年上の奴が、わたくしを側へ呼んでかう云ふのです。「お前、樺太を脱けて来たのだらう。あのサルタノフを遣つ付けた連中だらう。」
正直を云へば、この時わたくしは本当の事を直ぐに云ひにくいやうに思つたのです。勿論相手も同じ罪人ではあるが、物に依つては打ち明けにくい事もあります。殊に監視中の人間は、本当の囚人仲間とは違ひます。この年上の男にしろ、その外の男にしろ、役人の機嫌が取りたいと思へば、直ぐに行つてわたくし共の事を密告する事が出来ます。自分達は兎に角或る自由を得てゐるのですからね。同じ牢屋の中に這入つてゐれば、密告をした奴は分かるから、そんな事は出来ない。こんな手放しにしてある人間は、さういふわけには行きません。
わたくしが少し詞を控へてゐるのを見て、相手は直ぐにわたくしの腹の中を見透《みす》かしてしまひました。
「己をこはがるのぢやないぞ。己は仲間の告口をするやうな人間ではない。それに何も己の関係した事ぢやあるまいし。町ではもうあの一件を知らないものはない。それにお前方を見れば、丁度同勢十一人だ。余り智恵がなくつても、その連中だらうといふ事は分かつてしまふ。その辺にうろ付いてゐると、ひどく危ないぜ。あの事件は大騒ぎになつてゐる。こゝの裁判所長は恐ろしく厳しいのだ。まあ、どうしてこゝを切り抜けるか、それはお前方の事だが、旨く行つたら大したものだ。幸ひ己達は少し食料も余計に持つてゐるから、町へ帰つたら、パンや肴を少し位、お前方に分けて遣らう。鍋なんぞもいりはしないか。」
「さうだね。若しお前の方で不用な鍋でもあれば難有いが。」
「好い。遣るとしよう。まだ何か思付いたものがあつたら、一しよに纏めて、晩に持ち出して遣る。仲間は助けて遣らなくてはならないからな。」
わたくし共はこの話をしてから、重荷を卸したやうな気がしました。そこで帽を脱いで、その男に礼を言ふと、同志の者も皆帽を脱ぎました。段々乏しくなつて来た食料をくれるといふのも難有いが、それよりはこの男の親切な詞が嬉しかつたのです。どの人間もどの人間も、わたくし共に対しては禍の種で、悪くすると命まで取り兼ねないから、わたくし共は避けるやうにしてゐる。それにこの男が始めてわたくし共に同情してくれたのです。
わたくし共は今の出来事が余り嬉しかつたものですから、もう少しで飛んだ危険を冒すところでした。
監視中の連中が行つてしまつた跡で、わたくし共は安心して、今まで程用心をしなくなりました。ヲロヂカなんぞは跳ねたり踊つたりしてゐます。その辺に、河の近い所で、ヂツクマン谷といふ所があります。ヂツクマンといふ独逸人が、そこで蒸汽機関を製造した所です。そこへわたくし共は這入り込んで、火を焚いて、その上へ鍋を二つ掛けました。一つの方では茶が煮えてゐる。今一つの方では肴を入れた汁が煮えてゐる。その内に日が暮れて、周囲《まはり》が暗くなつて、小雨が降り出しました。熱い茶を飲んで、気分が好くなつたものだから、雨なんぞには構はずにゐました。
そんな風にして野宿をしてゐて、アブラハムの懐にゐるやうな気で暢気になつてゐたのです。こつちから目の前に町の明りが見えるのだから、町からもこつちで焚く火が見えなくてはならないのを、大胆にも気に掛けずにゐたのです。人間は不思議なもので、人一人に出逢つてもならないと思つて、森や野原をさまよひ歩くかと思ふと、こんな事を遣るのです。大きな町の直ぐ前で火を焚いて、なんの危険もない積りで、暢気に話をしてゐます。
わたくし共の僥倖で、丁度その時ニコラエウスクの町に或る年寄の役人がゐました。その人は或る土地の監獄長をした事のある人です。その監獄は大きくて、種々な囚人が入れてありました。そこにゐた囚人は皆この老人の恩を受けてゐます。シベリアで、ステパン・サヱリイツチユ・サマロフといへば、それを知らない流浪人はない。三年程前にそのサマロフが亡くなつたといふ事を聞くと、わたくしでさへわざ/\牧師さんの所へ行つて、ミサを読んで貰ひました。サマロフさんは実に好い人でした。只口が悪い。恐ろしい悪態を吐《つ》きます。大声を出して足踏みをします。併し残酷な事なぞは誰にもしません。何をするのも公平で、誰にも侮辱を加へるといふやうな事がなく、囚人を圧制しないから、みんなが難有がつて、敬つてゐました
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