をなんの連絡もなしに話し出した。外套を体にぴつたり巻き附けて、乳母は歯の無い口からしゆつ/\と云ふやうな声を出して、こんな事を言つた。
「坊つちやん。二三日前の事でございますがね。港の関門の所で人殺しを見ましたよ。ですけれど、こはい顔はしてゐませんでした。ほんに光つた目をしてゐました。髪は黒うございました。丸で小僧つ子のやうな男でございました。わたしの亭主の兄弟で、商売をしてゐますチツスさんが掴まへたのでございます。」
フロルスは一声叫んで、婆あさんの臂を攫んだ。
「こら。廃せ。すぐに帰つてくれ。チツスだと。お前チツスと云つたな。魔女奴が。」
叫声に驚かされて無言の童が駈け附けた。
三
数日間煩悶が続いた。病人は度々「もう我慢が出来ない、己の力に余る」と、繰り返して云つた。陰密に心髄に食ひ込んでゐる苦痛のために、今までも蒼かつた顔は土色になつた。目の縁には黒い暈《くま》が出来た。声は干からびた喉から出るやうに聞える。一夜も穏に眠らない。その絶間の無い恐怖は、徒《いたづら》に無言の童を悩ますのである。
病人は或朝日の出る前に起きた。そしてどこかへ往く気と見えて、帽と外套とを出させた。老人の奴隷が用心して何も問はずにゐると、主人は奴隷の目を見て、無言の問に答へた。
「お前附いて来るのだ。」
主人はいつもの楽な、軽らかな足取で歩く。窪んだ頬の上に薔薇色の紅《くれなゐ》が潮《さ》してゐる。多くの町や広場を通り過ぎて、主従は大ぶ家を遠ざかつた。併し老人には主人がどこへ往くのだか分からない。そのうち主人が目的地に達したやうに足を止《とゞ》めたので、老人が決心して問うた。
「檀那様。ここへお這入なさいますか。」
「さうだ。」
主人の声は苦労の無ささうな声である。二人は監獄の門に入つた。
財産があり、身分のあるフロルスであるから、獄吏は別に面倒な事も言はずに、客の要求を容れた。勿論心附けは辞退せずに受けた。フロルスは頃日《このごろ》逃亡した奴隷が監獄の中に入れられてゐはせぬか、捜して見たいと要求したのである。
フロルスは隅々まで気を配つて、しかも足早に監獄を見て廻つて、最後の地下室をも剰《あま》さなかつた。その目附は馴染のある場所を見て廻るやうな目附であつた。最後にフロルスは詞せはしく問うた。
「囚徒は皆内にゐるのですね。今見たのより外にはゐないのです
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