はこれからあちらへ這入ります。どうぞこゝでお楽になさりませ。」かう云つてセルギウスは壁に懸けてあるランプを卸して、一本の蝋燭に火を移した。そして女の前で叮嚀に礼をして、奥の小部屋に引つ込んだ。小部屋は板囲の中になつてゐる。
 女はセルギウスが何やらあちこち動かし始めたのを聞いてゐる。「わたしとの間の交通遮断をするのだな」と思つて、女は微笑んだ。さて白の毛皮を脱いで、髪の毛の引つ掛かつてゐる帽子を脱いだ。それから帽子の下に巻いてゐた刺繍《ぬひとり》のある巾《きれ》を除《の》けた。女は窓の外へ来た時、実はそんなに濡れてはゐなかつた。さも濡れたらしい様子をして、草庵に入れて貰はうとしたのである。それから戸口へ廻る時、実際|行潦《ぬかるみ》へ左の足を腓腸《ふくらはぎ》まで蹈み込んだ。靴に一ぱい水が這入つた。女は今|氈《かも》一枚で覆つてあるベンチのやうな寝台《ねだい》に腰を掛けて、靴を脱ぎ始めた。そして此庵室を見廻して、却々好い所だと思つた。間口が三尺、奥行が四尺位しかない、小さい一間で、まるで人形の部屋のやうに清潔にしてある。自分の腰を掛けてゐる寝台の外には、壁に取り付けた書棚と祈祷の時|跪《ひざまづ》く台とがあるばかりである。戸の側の壁に釘が二三本打つてあつて、それに毛皮と僧の着る上衣とが懸けてある。祈祷の台の側には荊の冠を戴いたクリストの画像を懸けて、その前に小さい燈火《ともしび》を点《てん》じてある。室内には油と汗と土との臭が充ちてゐる。女には室内の一切の物が気に入つた。此臭までが気に入つた。女の一番気にしてゐるのは足の濡れたのである。中にも行潦に蹈み込んだ左の足は殊にひどく濡れてゐるので、女は早く靴を脱がうとしてあせつてゐる。女は靴をいぢりながら絶えず微笑んでゐる。自分の企てた事をこゝまで運ばせたのを喜んでゐるばかりではない。あの丈夫さうな、異様な、好いたらしい男をちよいと困らせたのが愉快なのである。「わたしがいろんな事を言つたのに、ろくに返事もしてくれなかつたが、まあ、それはどうでも好い」と心の中に女は思つた。そしてすぐに声を出して云つた。「セルギウスさん。セルギウスさん。あなたのお名はさう仰やるのでしたね。」
「何か御用ですか」と小声で答へた。
「御免なさいよ。こんなにわざと寂しくして暮してお出なさる所へ、お邪魔に出て済みません。ですけれど実際どうにもしやうがなかつたのです。もう少しあんなにしてゐると、わたくしきつと病気になつてしまひました。どういたして宜しいか分らなかつたのですもの。わたくしぐつしより濡れてゐますの。それに足が両方とも氷のやうに冷たくて。」
「どうぞ御免下さい。どうもわたくしはどうにもしてお上げ申す事が出来ません。」又小声でかう答へた。
「いゝえ。決してあなたにお手数は掛ません。只明るくなるまで、こゝにゐさせて戴きます。」
 もうセルギウスは返事をしない。女の耳には何かつぶやく声が聞えた。多分祈祷してゐるのだらう。
 女は微笑みながらかう云つた。「あなたこゝへ出て入らつしやるやうな事はございますまいね。わたくしこゝで着物を脱いで体を拭かなくてはなりませんが。」
 セルギウスは答へなかつた。矢張今までのやうに小さい声で祈祷の詞を唱へてゐる。
 女は濡れた靴を強ひて脱ぎ掛けて、「あゝした男なのだな」と考へた。靴は引つ張つても引つ張つても脱がれぬので、女は可笑しくなつて来た。そして殆ど声を出さずに笑つた。それから自分が笑つたら、庵主がそれを聞くだらうと思つた。又それが聞えた時自分の希望する通りの功能があるだらうと思つた。そこで今度は声を立てゝ笑つた。快活な、自然な、人の好さゝうな笑である。実際此笑声は女の希望した通りの作用をセルギウスの上に起したのである。女は思つた。「あんな風な男なら、随分好いて遣る事が出来さうだ。まあ、なんと云ふ目だらう。それに幾ら祈祷の文句を唱へたつて、なんと云ふ打ち明けたやうな、上品な、そして情熱のある顔だらう。わたし達のやうな女には皆分る。あの人はあの窓硝子に顔を押し付けてわたしを見た時、あの時もうわたしの事が分つて、わたしがどんな女だと云ふ事を見抜いたのだ。あの人の目はその時赫いた。あの人はその時わたしの姿を深く心に刻んだ。あの人はもうわたしに恋をしたのだ、惚れたのだ。さうだ。たしかに惚れたのだ。」こゝまで思つて見た時、靴がやつと脱げた。それから女は靴足袋を脱ぎに掛かつた。上の端がゴム紐で留めてある、長い靴足袋を脱ぐには、裳《も》をまくらなくてはならない。流石《さすが》に間を悪く思つて、女は小声で云つた。「あの、今こちらへ入らつしやつては困りますよ。」
 板為切《いたじきり》の向側からは返事が聞えない。矢張単調な祈祷の声がしてゐる。それと慌《あわたゞ》しげに立ち振舞ふ物音がするだけである。
 女は思つた。「きつと今額を土に付けて礼をしてゐるのだらう。だけれどもそれがなんになるものか。丁度わたしがこつちであの人の事を思つてゐるやうに、あの人はあつちでわたしの事を思つてゐるのだもの。わたしがあの人の姿を思つてゐるやうに、あの人はわたしの此脚の事を思つてゐるのだもの。」とう/\女は濡れた靴足袋を脱いでしまつた。それから素足で寝台の上を歩いて見て、しまひにはその上に胡座《あぐら》を掻いた。それから暫く両手で膝頭を抱いて、前の方を見詰めて、物を案じてゐた。「ほんにこゝは、沙漠の中も同じ事だ。こゝで何をしたつて、誰にも分りやあしない。」
 女は身を起した。そして靴足袋を手に持つて、炉の側へ往つて煙突の上に置いた。それから素足で床を軽く蹈んで、寝台へ戻つて来て、又その上で胡座を掻いた。
 板為切の向側ではまるで物音がしなくなつた。女は頸に掛けてゐた、小さい時計を見た。もう二時になつてゐる。「三時頃には連の人達が此庵の前に来る筈だ」と女は思つた。もうそれまでには一時間しかないのである。「えゝ。詰らない。こゝにかうして一人で坐つてゐて溜まるものか。馬鹿。わたしともあるものがそんな目に逢ふ筈がない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はかう思つて呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエヰツチユさん。カツサツキイ侯爵。」
 戸の奥はひつそりしてゐる。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございませう。わたくしはあなたをお呼申さないで済むことなら、お呼申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激してゐる。「あゝ。あゝ。」女はうめいた。そして頭を音のするやうに寝台の上に投げた。不思議な事には、実際此時|脱力《だつりよく》したやうな、体中が痛むやうな、熱がして寒けがするやうな心持になつたのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。あゝ。あゝ。」かう云つて女は上衣の前のボタンをはづして胸を出して、肘までまくつた腕を背後《うしろ》へひろげた。「あゝ。あゝ。」
 此間始終セルギウスは板為切の奥に立つて祈祷してゐた。とう/\晩に唱へるだけの祈祷の文句を皆唱へてしまつて、しまひには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立つてゐて、「イエス・クリストよ、神の子よ、我に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ」と繰り返してゐた。セルギウスの耳には何もかも聞えてゐる。女が着物を脱いだ時、絹のさら/\と鳴る音も聞えた。セルギウスは気が遠くなるのを感じた。次の一刹那には堕落してしまふかも知れぬやうな気がした。そこで暫くも祈祷を絶やさなかつた。此時のセルギウスの感情は、昔話の主人公が、背後《うしろ》を振り返つて見ずに、前へ前へと歩いて往かなくてはならぬ時の感情と同じ事だらう。セルギウスには身の周囲に危険があり害毒があるのが分つてゐる。そしてその方を一目も見ずにゐるのが、唯一の活路だと云ふことが分つてゐる。それに突然、どうしてもあつちの方を見なくてはゐられないと云ふ不可抗力のやうな慾望が起つた。それと同時に女の声がした。「お聞きなさいよ。あなたそれでは人道にはづれてお出なさいますよ。わたくしは死んでしまふかも知れません。」
「好いわ。己はあいつの所へ往つて遣らう。併し昔の名僧は片手を火入《ひいれ》の中へ差込んで、片手で女の体を押へたと云ふことだ。己もさうしよう。だがこゝには火入はない。」セルギウスは四辺《あたり》を見廻した。そしてランプが目に付いた。セルギウスは指をランプの火の上に翳《かざ》して額に皺を寄せて、いつまでも痛を忍んでゐようと思つた。最初はなんの感じもしなかつた。それから指がたしかに痛むとか、又どれだけ痛むとか云ふことが、まだはつきり知れぬうちに、セルギウスは痙攣のやうな運動を以て手を引いた。そして手の先を振り廻した。「いや、これは己には出来ない」と、セルギウスは諦めた。
「神様に掛けてお願します。ほんにどうぞ来て下さいまし。わたくしは死にます。あゝ。」
「己はとう/\堕落してしまはんではならぬのか。いや/\。断じてさうはなりたくない。今すぐに往きます。」かう云つてセルギウスは扉を開いた。そして女の方を見ずに寝台の側を通つて前房へ出た。そこにはいつも薪を割る木の台がある。セルギウスは手探でその台の所へ往つた。それから壁に寄せ掛けてある斧を手に取つた。セルギウスは「只今」と声高く答へて、左の手の示指《ひとさしゆび》を薪割台の上に置いて、右の手に斧の柄《え》を握つて、斧を高く振り上げて、示指の中の節《ふし》を狙つて打ち下した。指はいつもの薪よりは容易《たやす》く切れて、いつもの薪と同じやうに翻筋斗《とんぼがへり》をして台の縁に中《あた》つて土間に落ちた。指の痛をまだ感ぜないうちに、指の地に落ちた音が聞えた。併しまだ気の落ち着かぬうちに灼《や》くやうな痛がし出して、たら/\流れる血の温みを覚えた。セルギウスは血の滴る指の切口を法衣の裾に巻いて、手をしつかり腰に押し付けた。そして庵室の中に這入つて、女の前に立つた。「どこかお悪いのですか。」声は静であつた。
 女はセルギウスの蒼ざめた顔を仰ぎ視た。僧の左の頬は痙攣を起してゐる。女は何故《なにゆゑ》ともなく、急に恥しくなつて、飛び上つて、毛皮を引き寄せて、堅く体に巻き付けた。「わたくし大変に気分が悪くなりましたものですから。きつと風を引いたのでございませう。あの。セルギウスさん。わたくしは。」
 セルギウスはひそやかな歓喜に赫く目を挙げて女を見た。そして云つた。「姉妹よ。あなたはなぜ御自分の不滅の霊魂を穢《けが》さうとなすつたのですか。世の中には誘惑のない所はありません。併し自分の身から誘惑の出て行くもの程傷ましいものはありますまい。どうぞあなたも祈祷をなすつて下さい。主が我々にお恵をお垂下さるやうに。」
 女は此詞を聞きながら、セルギウスの顔を見てゐた。そのうちなんだかぽた/\と水のやうな物が床の上に落ちる音がした。女は下の方を見た。そしてセルギウスの左の手から法衣をつたつて血の滴つてゐるのを見付けた。「あなたお手をどうなすつたのです。」口でかう云つた時、女はさつき前房で物音のした事を思ひ出した。そこで忙《いそが》はしくランプを手に持つて、前房へ見に出た。床の上には血まぶれになつた指が落ちてゐた。女はさつきのセルギウスの顔よりも蒼い顔をして、引き返して来て、セルギウスに物を言はうとした。
 セルギウスは黙つて板為切の中へ這入つて、内から戸を締めた。
 女は云つた。「どうぞ御免なすつて下さいまし。まあ、わたくしはどういたして此罪を贖《あがな》つたら宜しいでせう。」
「どうぞ此場をお立ち退き下さい。」
「でもせめてそのお創に繃帯でもいたしてお上申したうございますが。」
「いや。どうぞお帰り下さい。」
 女は慌《あわたゞ》しげに、無言で衣物を着た。そして毛皮を羽織つて寝台に腰を掛けた。
 その時森の方角から橇の鐸《すゞ》の音がした。
「セルギウスさん。どうぞ御勘辨なすつて下さいまし。」
「宜しいからお帰り下さい。主があなたの罪をお赦し下さるでせう。」
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