い緑に見えてゐて、他の一方、楡の木の周囲は暗い蔭になつてゐる。周囲を鞘翅虫《せうしちう》が群り飛んで、木の幹に打《ぶ》つ付かつては地に落ちる。セルギウスは夕食が済んだので、静な祈祷をし始めた。
「イエス・クリストよ。神の子よ。我等に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ。」先づかう唱へて、それから頌《じゆ》を一つ誦《じゆ》した。頌がまだ畢《をは》らぬうちに、どこからか雀が一羽飛んで来て地の上に下りた。それが啼きながらセルギウスの方へ躍つて近づいて来たが、何物にか驚いたらしく、又飛んで逃げた。セルギウスは此時あらゆる現世の物を遠離ける祈祷をした。それから急いで商人の所へ使を遣つて、娘を連れて来いと云はせた。娘の事が気に掛かつてゐるのである。セルギウスが為めには、知らぬ娘の顔を見るのが、慰みになるやうな気がした。それに父親もその娘も自分を聖者のやうに思つてゐて、自分の祈祷に利目《きゝめ》があると信じてゐるのが嬉しかつた。セルギウスは聖者らしく振舞ふ事を、不断|斥《しりぞ》けてはゐるが、心の底では自分でも聖者だと思つてゐるのである。
折々はどうして自分が、あの昔のステパン・カツサツキイがこんな聖者、こんな奇蹟をする人になつたかと、不審に思ふ事もある。併し自分がさうした人になつてゐると云ふ事には疑を挾《さしはさ》まない。自分の目で見た奇蹟をば、自分も信ぜずにはゐられない。最初に十四歳になる男の子の病気を直した事から、最近に或る老母の目を開けて遣つた事まで、皆自分の祈祷の力のやうに思はれる。如何にも不思議な事ではあるが、事実がさうなつてゐるのである。
そこで商人の娘に逢ひたく思ふのは、こゝで又奇蹟の力を験《ため》して、今一度名誉を博する機会を得ようと思ふのである。「千ヱルストもある所から、人が己を尋ねて来る。新聞は己の事を書く。帝も己の名を知つてゐられる。宗教心の薄らいだヨオロツパが己の事を評判してゐる。」セルギウスはかう思つた。
かう思つてゐるうちに、セルギウスは自分の自負心が急に恥かしくなつた。そこで又祈祷をし始めた。
「主よ。天にいます父よ。人間に慰藉《なぐさめ》を給はる父よ。精霊よ。願くはわたくしの此胸にお宿下《やどりくだ》さい。そしてあらゆる罪悪をお癒《いや》し下さつて、わたくしの霊をお救下さい。わたくしの心にみち/\てゐる、いたづらな名聞心《みやうもんしん》をお除き下さ
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