しがらずにはゐられない。又自分が人間の性命の上に影響することの出来るのを、価値のある事のやうに思はずにはゐられない。セルギウスには自分が人間世界の光明のやうに思はれる。併し此心情を明白に思ひ浮べて見ると、曾《かつ》て我内面に燃えてゐた真理の神々しい光明が、次第に暗くなつて消えて行くのだと云ふ事が、はつきりして来る。「己のしてゐる事がどれだけ神の為めで、又どれだけ人間の為めだらうか。」此問題が絶えずセルギウスを責める。セルギウスにはこれに答へる勇気がない。そして心の底では、こんな風に神の為めにする行《おこなひ》の代りに人間の為めにする行を授けたのは、悪魔の所為《しよゐ》だらうと思はれる。その証拠には昔は山籠の住家《すみか》へ人の尋ねて来るのがうるさかつたのに、今では人が来ないと寂しくてならない。今は人の来るのがうるさくないでもなく、又その為めに自分が疲れもするが、矢張心中では人が来て自分を讃め称へてくれるのが嬉しくなつてゐるのである。
或る時セルギウスは此土地を立ち退いて、どこかへ身を隠してしまはうかと思つた。そんな時に何から何まで工夫して百姓の着る襦袢、上衣、ずぼん、帽子などまで用意した事がある。人には自分で着るのではなくて、自分を尋ねて来る貧乏人に遣るのだと云つた。さてその出来上つた品々をしまつて置いて考へた。あれを着て、長くなつた髪を切つて、立ち退けば好いのである。此土地を離れるには、まづ汽車に乗るとしよう。三百ヱルストばかりも遠ざかつたら好からう。それから汽車を降りて村落の間を歩かうと考へた。そこで或る時廃兵の乞食が来たのにいろ/\な事を問うた。村落を歩くにはどうして歩くか。どうして合力《がふりき》をして貰ふか。どうして宿を借るかと云ふのである。廃兵はどんな人が多分の合力をしてくれるものだとか、宿を借るにはどうして借るものだとか、話して聞かせた。セルギウスはそれを聞いて、自分もその通りにしようと思つた。或る夜とう/\例の衣服を出して身に着けて、これから出掛けようとまで思つた。併しその時になつて、去留《きよりう》いづれが好からうかと、今一応思案した。暫くの間はどちらにも極める事が出来なかつた。そのうち次第に意志が一方に傾いて来て、とう/\出掛けるのを廃《よ》して、悪魔のするが儘になつて留《と》まる事にした。只その時拵へた百姓の衣類が、こんな事を考へたり、感じた
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