威厳なぞがあるものか。己は卑い人間だ。」かう思つてセルギウスは法衣の裾をまくつて、下穿《したばき》に包まれてゐる痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切つたり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「此|床《とこ》我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くやうに思はれた。「独寝《ひとりね》の床は矢張墓だ、虚偽だ」と云ふ囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しよになつてゐた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震をしてこの想像を斥けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清規《せいき》を読んだ。それが済んで福音書を手に取つて開いた。すると丁度度々繰り返したので、諳誦する事の出来るやうになつてゐる文句が目の前に出た。「あゝ、主よ。我は信ず。我が不品行を救はせ給へ」と云ふ文句である。
セルギウスは頭を擡《もた》げてあらゆる誘惑を払ひ除けようとした。譬へばぐらついてゐる物を固定して、均勢を失はせないやうにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬやうに、そつと身を引いた。いつもの馬の目隠しのやうなものが、又自分の限界を狭《せば》めてくれた。それでセルギウスは強ひて自ら安んずる事が出来た。
セルギウスが口には子供の時に唱へてゐた祈祷の詞が上つて来た。「あゝ。愛する主よ。我御身に願ふ」と云ふ詞である。此時セルギウスの胸が開けて、歓喜の情が起つて来た。そこで十字を切つて幅の狭いベンチの上に横になつた。これは安息の時の台にするベンチで、枕には夏の法衣を脱いでまろめて当てるのである。
セルギウスはうと/\した。夢現《ゆめうつゝ》の境で、橇の鐸《すゞ》の音が聞えたやうに思つたが、それが実際に聞えたのだか、そんな夢を見たのだか分らなかつた。そのうち忽ち草庵の扉を叩く音がしたので、はつきり目が覚めた。それでも自分で自分の耳を疑つて、身を起して傾聴した。その時又扉を叩いた。ぢき側の扉である。それと同時に女の声がした。
「あゝ。聖者達の伝記で度々読んだ事があるが、悪魔が女の姿になつて出て来ると云ふのは本当か知らん。たしかに今のは女の声だ。しかもなんと云ふ優しい遠慮深い可哀《かはい》らしい声だらう。えゝ。」セルギウスは唾をした。「いや。あれは只己
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