oして、それを便々たる腹の上に重ねてゐた。セルギウスが横から見た時、長老は微笑みながら右の手で法衣の流蘇《ふさ》をいぢつて、相手の男と話をし出した。その男は隊外将官の軍服を被てゐる。セルギウスは軍人であつたから服装を見ることは馴れてゐる。そこで肩章や記章の文字をすぐに見分ける事が出来た。この将官は自分の付いてゐた聯隊で聯隊長をしてゐた男である。今は定めて余程高い地位に陞《のぼ》つてゐることだらう。
 セルギウスは一目見てかう云ふ事を悟つた。それはこの高級武官が自分の昔の上官であつたと云ふ事を、長老が知つてゐて、それで長老の肥え太つた赤ら顔と禿頭《はげあたま》とが喜に赫いてゐると云ふ事である。
 セルギウスはそれだけでも侮辱せられたやうに感じた。そこで長老が何を言ふかと思ふと、只その将官が見たいと云ふので呼んだのだと云つた。「昔聯隊で同僚であつたあなたに逢ひたいと云はれたので」と、長老は将官の詞を取り次いだ。此時セルギウスは一層強烈に侮辱を感ぜずにはゐられなかつた。
 将官は右の手をセルギウスが前に伸した。
「久し振りでお目に掛かりますね。あなたが法衣をお着になつたところを見るのは、意外の幸です。昔の同僚をお忘にはなりますまいね。」
 白髪で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がつてゐるやうに見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂、その頬髯からは葉巻煙草の匂がする。総て此等の事を、セルギウスは鞭で打たれるやうに感じた。
 セルギウスは長老に向つて再び敬礼した。そして云つた。「長老様のわたくしをお呼になつた御用は。」かう云つた時のセルギウスが顔と目との表情には「なぜか」と云ふ問が現はれてゐた。
 長老は答へた。「なに。只閣下があなたを見たいと云はれたからですよ。」
 セルギウスの顔は真つ蒼になつて、物を言ふ時唇が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思つてそれで社会から身を引いたのでございます。それに只今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくやうにお取計らひになりましたか。」
 長老の顔は火のやうになつて、額に皺が寄つた。「もう宜しいから、持場へお帰なさい。」
 その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密《こゝろひそか》に決するところがあつて、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕慢を詫びたのであ
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