では、御維新後、蕎麦は「もり、かけ」十六文、店の前の往来へ大抵正面に「二八」横の方に「二八蕎麦」と書いた大きな「あんどん」がおいてありまして、下開きの幅の広い板が台について障子紙を張ってあり、横長の「かけあんどん」には「そば、うどん、もり、かけ」と最初に書いて、それから「花巻、玉子とじ、天ぷら、しっぽく、南ばん」と順に右から左へ縦書にしてありました。これが夜の四つ(今日の午后十時)まではとぼとぼと道を照らしていたものであります。ところによっては往来のこのあかりがひとしお淋しく感じさせます。
 武家は余りまいりませんが、町人は食べに行きます。家の内の拵えは今と大差なく、やはり切り落としの土間になっていて、そこに八間がついていました。この八間というのは、今の人々にはちょっと分りにくいけれども、いわば大きな紙の傘で、その下に土瓶形をした金物の油つぼがあって、その口へ火がついているのです。油煙がどんどん出るので、八間へ張った紙はすぐにくすぶったものであります。蕎麦屋とか湯屋のあかりは皆これであったのであります。
 蕎麦は手打ち、うでて「しゃっきり」と角があって、おつゆをかけて出されてもきらりと光っていたものであります。「かけ」の丼は八角の朝顔形で、蒸籠も今のとはちょっと違って、あの四角の端に耳が出ていました。つまり井桁に組んであって、あげ底に細い竹が薄く簀のように作りつけになっていました。この頃は、竹の簀もしごく手軽になっていますが、あんなものでなかったのです。
 手で粉をこねて延し、さくりさくりと切った蕎麦でありました。今のように機械でずるずる出て来るのと違って風味がありました。「笊蕎麦」というのは、通常のところにはなく、竹あみの一枚笊へ盛って出すので、海苔なんかかかっているものではなかったのです。神田けだもの店《だな》(今の豊島通りを右へ廻った辺)に「二六蕎麦」という名物、つまり十二文でなみのところより四文安いが、またその安いざつなところに一種の味があって、蕎麦食い達はよく出かけたもので、なかなか旨いものでありました。
 四谷の「馬方蕎麦」も評判で、真黒いがもりがよくって、一つで充分昼食の代りになったのです。四谷も今でこそ東京一という新宿のような結構なところとなったのですが、あの頃は「馬方」ばかりがぞろぞろ通って、並の人よりこの方の人が多い位であったのであります。そこで馬方が休んではこの蕎麦を食べるので、遂に「馬方蕎麦」と有名になってしまったのであります。

 蕎麦屋を最新カウンタ式に
 蕎麦切を食うには、椅子に腰をかけ靴ばきではおちつきがない。真の風味を味わうには、畳の上に座して静かに味わうに限ると前述したものであります。しかし一方においては、実際蕎麦切なり蕎麦麪を味わう真の店として、いたって古風な通人向きの座席の家もなければならず、また文化の進歩した今日のことでもありますから、大衆向きに椅子に腰をかけて簡単に食べられる店も必要と存じます。しかし今日の蕎麦屋の大多数を見るに、これに反し表がまえと内部は異なり、内部は蕎麦屋ともつかず、またカフェーともつかぬ家が多く、少し町の変わった方面の蕎麦屋に入ってみるに、明治初年のそのままの店がまえの家さえあるようで、こんな家に限って客席に蕎麦道具を並べたり、またその席で出前の仕度をするなど、時によるとそこで葱をこつこつ刻んだり、大根をおろしたり、そのうえ調理場といわず客席といわず、またひどいのになると、釜湯の上を油虫がぞろぞろはっているというような不潔さであります。その一例として著者は昨年の初夏の頃でありましたが、友人を上野駅に見送って帰途、山下のある蕎麦屋に入って、天ぷら蕎麦を注文して食べようとすると驚くではありませんか、その中にしかも立派な油虫が一疋存在ましましたのでした。こんな例は他にもよく聞くことでありますが、代りを食べる心地にもなれぬではありませんか。なぜ調理場に油虫の発生するような不潔なことをするかと思ったこともありました。ともかく、第一今の蕎麦屋なるものの店舗の改良は問題の一つで、大衆向きの店舗にするには今日のごとき表がまえでは、少し身分ある即ち中産階級の人々や婦人連はどうしても入り難いということであります。これについては蕎麦屋側としても大いに一考を要することでしょう。
 今一つの問題は、前項蕎麦屋の主人の説としてちょっと述べておきました、蕎麦道具でありますが、蕎麦屋側からいわせると、塗物類は高価であるということであります。これはもっともな説で、他の飲食物の器から見ると少し高価過ぎるかたむきは本当のことで、一枚十銭の「もり」なり、十五銭の笊蕎麦の道具に一円二十銭も、少し良いものは二円近くもかけていることであるから、少し贅沢過ぎると思います。
 しかしそんな高価な蒸籠やその他の器
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