馬方が休んではこの蕎麦を食べるので、遂に「馬方蕎麦」と有名になってしまったのであります。
蕎麦屋を最新カウンタ式に
蕎麦切を食うには、椅子に腰をかけ靴ばきではおちつきがない。真の風味を味わうには、畳の上に座して静かに味わうに限ると前述したものであります。しかし一方においては、実際蕎麦切なり蕎麦麪を味わう真の店として、いたって古風な通人向きの座席の家もなければならず、また文化の進歩した今日のことでもありますから、大衆向きに椅子に腰をかけて簡単に食べられる店も必要と存じます。しかし今日の蕎麦屋の大多数を見るに、これに反し表がまえと内部は異なり、内部は蕎麦屋ともつかず、またカフェーともつかぬ家が多く、少し町の変わった方面の蕎麦屋に入ってみるに、明治初年のそのままの店がまえの家さえあるようで、こんな家に限って客席に蕎麦道具を並べたり、またその席で出前の仕度をするなど、時によるとそこで葱をこつこつ刻んだり、大根をおろしたり、そのうえ調理場といわず客席といわず、またひどいのになると、釜湯の上を油虫がぞろぞろはっているというような不潔さであります。その一例として著者は昨年の初夏の頃でありましたが、友人を上野駅に見送って帰途、山下のある蕎麦屋に入って、天ぷら蕎麦を注文して食べようとすると驚くではありませんか、その中にしかも立派な油虫が一疋存在ましましたのでした。こんな例は他にもよく聞くことでありますが、代りを食べる心地にもなれぬではありませんか。なぜ調理場に油虫の発生するような不潔なことをするかと思ったこともありました。ともかく、第一今の蕎麦屋なるものの店舗の改良は問題の一つで、大衆向きの店舗にするには今日のごとき表がまえでは、少し身分ある即ち中産階級の人々や婦人連はどうしても入り難いということであります。これについては蕎麦屋側としても大いに一考を要することでしょう。
今一つの問題は、前項蕎麦屋の主人の説としてちょっと述べておきました、蕎麦道具でありますが、蕎麦屋側からいわせると、塗物類は高価であるということであります。これはもっともな説で、他の飲食物の器から見ると少し高価過ぎるかたむきは本当のことで、一枚十銭の「もり」なり、十五銭の笊蕎麦の道具に一円二十銭も、少し良いものは二円近くもかけていることであるから、少し贅沢過ぎると思います。
しかしそんな高価な蒸籠やその他の器
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