ず、勇んで出かけていらっしゃる。――なみのお勤めの方には出来ないことだと私は感服しておりますよ」
詮吉は思わず唸るような気持になり、
「――なるほど……そういうもんですか」
と云った。周密なつもりでも、詮吉はそこまでは思い及ばなかったのである。あらそわれないものだ。実にそう思った。仕方なく詮吉は、
「まア、お互にやれるうちは元気で暮す方がいいですよ」
あっさり、笑いにまぎらした。
「そうですとも!」
お豊は湯呑を両手のなかにもってうなずき、
「ですからね、私は五反田のにもよく云うんですよ。木村さんを御覧てね、ズボンの折目にあんなに泥のたまるのを見れば、決して楽な勤めはしていなさらないらしいのに、ああも暮せるもんだよってねえ」
誠意のあらわれているお豊の顔を眺め、詮吉は殆ど閉口した。実は、泥のことも自分ではうっかり暮していた――
「どうも……小母さんには――かなわない」
一緒に笑った。が、お豊はすぐ真顔にかえり、
「木村さん、御迷惑でも、こればっかりは見込まれたが因果と思って、聞くだけ聞いて下さいまし」
詮吉は、余り思いがけないことなので、次第に眼を大きくしてお豊の顔をうち守った。
末娘のきよ子が、年が改まると二十《はたち》になる。不束者《ふつつかもの》だが、おひとを見込んでの相談がある。どうか聟になってやってはくれまいか。そういうのであった。
ひたむきのお豊の心持は、一言一句のうちに溢れ、詮吉は益々返答に窮した。
窓に向けて置いてある机に肱をかけていた、それをいつかきっちり腕を組んで坐り、詮吉は、余り突然でどう返事していいか分らない、ありのままを云った。
「――あんまり、あせりなさらない方がきよ子さんのためでしょう」
それは詮吉の実感であった。詮吉はお豊母娘の勤労者らしい地味な親切をよろこび、いい下宿を見つけたとは思っていたが、きよ子に対しては、自身の困難な毎日の活動条件から、全然問題にしていなかった。
お豊の方はそうとは知らず、ひたすら自分の目がねの違わなかったのをよろこぶ風で、
「あなたがそうおっしゃることは、わかっておりましたよ。ですからね、猶更私の身にして見れば、ああこんなお方をと思うんですよ」
そして、両眼に涙をうかべながら、
「あなたのような息子が一人あってくれたらねえ」
信じきった眼つきで詮吉を見て笑った。
昔から小糠三合もったら養子に行くなというくらいだから、御覧のとおり何一つないうちへ来てくれとは決して云わない。ただ、生れた子に後をつがせて貰えれば満足だ。きよ子さえあなたに頼めば、もう自分は安心して目が瞑《つぶ》れる。お豊は娘ばかり持った親の苦労を訴えた。
それやこれやから、話は故郷のことに移った。その場合も詮吉は謂わば一つのたしなみで、生れた故郷ではない、育った第二の故郷について、物を云っているのであった。
階下でボンボン時計が、いかにも時代ものらしくゼンマイのほぐれる音を立てながら悠《ゆっ》くり十時を打った。
「――もうこんなですか?――とんだお邪魔してすみませんねえ」
そう云いながらなお未練げにお豊が立ちかねていると、格子が、高い音をたててあいた。
「――きよちゃんかい?」
「ええ」
「二階だよ……ちょっとよせておいただき」
また、ええという声がし、階子段《はしごだん》の下で気配がするのに、なかなか上って来ない。
「何してるんだい」
ふ、ふ、ふ。ひとりで含み笑いしている声が軽い跫音《あしおと》と一緒に聞え、カラリと唐紙をあけるなり白いショールを手にからめたきよ子が、
「ただいま!」
見違えるように艶やかな桃割に結った頭を電気の下へ下げた。
「ほほう」
詮吉は珍らしげな声を出した。
「まア……どれ?」
横を向かせて見て、お豊は、
「いいじゃないか」
と云った。
「駄目なのよ。姉さんたら、自分が髷に結うもんだから私にも結え結えって。――洗いもしてないんですもの」
暫らくすると、お豊は娘を先へおろし、やや声を低めて詮吉に念を押した。
「――どうぞ考えておおきなすって下さい。身勝手ですみませんが、気を悪くなさらないで下さいね」
下から睦じそうに喋っているきよ子とお豊の声がする。詮吉は、書類鞄から大小様々の印刷物をとり出し、机の上へひろげ、煙草に火をつけた。
詮吉の仲間の男で、それは下宿していた家の娘に信用され、直接結婚を申し込まれたという話があった。その男は、個人的な関係から大事が壊れるといけない、三十六計逃げるにしかずと、怱々《そうそう》に引越してしまった。
詮吉は、きよ子に対する心持が恋愛から遠いだけ、寧ろ、お豊が自分を信用するようになったその点から、何とかしてこの母娘にも自分達の活動の性質を間接にわからせてやる法はないものかと思った。それが順だし、よしん
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