どこやら変になり始める。これはよく仲間の誰彼が経験する例であった。しかし、お豊が、伏目で長火鉢に艶ぶきんをかけている顔の表情には、気をとられたようなところこそあるが、どうもそれらしくはない無心な様子が見える。
詮吉は、やがて冗談めかした調子で云った。
「――心配ごとでも出来ましたか」
「いいえ、心配ごとっていうのじゃありませんけれどね、もしあなたがお暇だったら、一つきいて頂きたいと思うことがあるもんで……」
詮吉は自分の身に何か関りのあることを直覚し、
「小母さん、よかったら二階へ来ませんか」
そう云いながら猫板の上からハンケチをとり、立ち上った。
「僕は着物きかえるから……」
間もなくお豊がわざわざ買っておいたらしい近所の海老せんべいと茶道具とをもって、あがって来た。
いけてあった瀬戸火鉢の火をほげながら、
「木村さんとこは、日数にすれば浅いおなじみなわけなのに、どういうもんか、私は他人と思えないような気がするんですよ」
足で蹴るような恰好をして帯を巻きつけている詮吉を後から見上げ、お豊はしんみりした調子で云った。
「私もこれまでには、随分多勢の若い方を見て来ましたが、お世辞でなく、あなたのような方ははじめてですよ。私は、ただのおひとじゃないと思って見ておりますよ」
とっさに言葉が出なかった。今の今まで、自分がごく平凡な一勤め人として母娘の目に映っている。そう詮吉は安心して、下の人たちの細かい親切をよろこんでいたのであった。言葉につまったような詮吉の顔を見ると、お豊はいかにもこだわりなく、
「そんな顔しなさらないでようございますよ」
母親らしく声を立てて笑った。
「私はこういう生れつきで、腹にないことは云えない性分ですからね」
永年二階をかして見て、下宿料をきちんと納めるひとは世間に数が少くはない。遊ばない若い者というのも考えているよりは多勢あるものだ。けれども、勤めの愚痴を一言も云わないで、どんなときでもいそいそと出かける人間というものはないものだ。
「それはねえ、木村さん、誰しも愚痴が出るもんですよ。雨でも降ると、靴をはきながら、ああいやんなっちゃうな、とか、ちっとくさくさしたことがあって帰って来ると、ああァあんなところはもう明日っからやめちゃいたいとかね。あなたばっかりは、うちへいらしてからこの方降ろうが照ろうが、本当にこれから先もこぼさ
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