というものの若々しい力が感じられて、非常に面白い。同時にこの有力な執筆者をもった同人雑誌が、僅か一年しかつづかず廃刊となったというところにも、各々一家をなしていた同人たちが当時の時代の速い波の間で政治的な問題などについてそれぞれ必ずしも同じ見解ばかりを抱いていなかったことがうかがわれて興味ふかい。西村茂樹は明治二十年、二葉亭の「浮雲」の出た年に「日本道徳論」を著している。二十八年に「徳学講義」を著し、例えば同じころ「希臘二賢の語に就て」を書いたりしていた津田真道やその頃大いに活動していた中江兆民などとは、人生の見かたの方向に於ては対蹠的な立場に立つようになったのであった。明治二十年前後の一つのリアクシォンの時代は明治初年の啓蒙家たちの思想の進路に極めて微妙に作用しているのであるが、西村茂樹というひとなどの行きかたは、その一方の典型をなしているものではないだろうか。
そういうような全く文化史風な興味が、祖父に対する私の心持に加わって来るとともに、あの時代を生きた一人の学者の姿として、祖母からきいているその家庭生活の雰囲気の渦まで、明治文化史の插画のように想い起されて来た。
曾祖父は堀田の青鬼と綽名された槍術家だった由。息子は体が弱くて、父である青鬼先生に佐分利流の稽古をつけられて度々卒倒するので、これは武術より学問へ進む方がよかろうということになって、二十歳前後には安井息軒についていたらしい。やがて洋学に志を立て、佐久間象山の弟子になって、西洋砲術の免許を得たりしている。洋学を習いはじめたのは三十四歳、手塚律蔵という人が先生であった。千賀子と云う祖母がよく、これでお前、私だって祖父さまのお手伝をして英語を昔は知っていたもんだよ。鵞鳥の太い羽根の先を削ってペンをこしらってね。礬水《どうさ》びきの美濃紙へ辞書をすっかり写したものさ、と云っていたが、それもこの時代の夫婦の一日の光景であったであろう。何かの儀式のとき、どうしても洋服にズボンがいるということになった。仕様がないから、俄に私の繻珍の丸帯をほどいてズボンにしておきせしたよ、こんなこともある。如何に律義な祖父でも自分一人繻珍のズボンでは困ったろう。仲間がきっとあったにちがいない。細君の丸帯から出来た繻珍ズボンをはいて、謹厳な面持で錦絵によくある房附きの赤天鵞絨ばりの椅子にでもかけていただろう祖父の恰好を想像すると、明治とともに心から微笑まれるものがある。
祖父は自分としては学者として一貫して生きようとしたようだが、官吏としていろんな役がついたことは家庭の空気をいつしか変え、祖母にしろ昔辞書を手写した時代のままの気分ではなかったらしい。千賀というひとの性質は祖父と反対の現実家で、美しい、烈しいところのある顔にもそれはつよくあらわれていた。或る秋の午後、ひっそりとした向島の家の縁側の柱に縮緬の衣類の裾をひいた祖母がふところでをしてもたれかかっている。その片方の素足を、源三という執事が袴羽織で庭石にうずくまって拭いてやっている。島田に紫と白のむら濃の房のついた飾をつけ、黄八丈の着物をつけた娘が、ぼんやりした若々しさを瞳の底に湛えて、その様子を見ている。そんな情景は紫檀の本箱のつまった二階の天地とは異った人間くささで活々としている。祖父は井上円了の心霊学に反対して立会演説などをやったらしいが、祖父の留守の夜の茶の間では、祖母が三味線をひいて「こっくりさん」を踊らしたりした。夫婦生活としてみれば、血の気が多く生れついた美人の祖母にとって、学者で病弱で、しかも努力家であった良人の日常は、欝積するものもあったろう。祖父はお千賀、お前は親に似ない風流心のない女だな、とよく云っていたらしい。祖母の家は茶が家の芸だったのだそうだ。祖母が茶をたてるのは一遍もみたことがない。その代り浅草の鰻屋へはよくつれて行って貰った。趣味にしても人の好悪にしても祖母はどこまでも現世的であったと思う。
後継ぎになる筈の一彰さんという人は、大兵な男であったが、十六のとき、脚気を患った後の養生に祖母はその息子を一人で熱海の湯治にやった。そこでお酌なんかにとりまかれて、それがその人の一生の踏み出しを取り誤らせることになり、廃嫡となった。大きい一彰という人が白縮緬の兵児帯に白羽二重の襟巻なんかして、母のところを訪ねて来たのを覚えている。この伯父は、母に向ってもやっと膝に手をおいたままうなずくだけであった。そのひとの子が家をつぐことになっていたのがやはりごたついて、流転生活の最後は哀れな死にようをした。そのひとは、母に向って、おばさん、僕は五つから質屋通いをやらされたんだよ、察しておくれ、といって泣いた。
祖母は、その孫より先に八十九歳の生涯を終ったが、生きているうちから、私はお祖父様には面目なくてと云っていたが、遺
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