は窮極の問題ではない。誘惑と云うものは、あって無いものだ。誘惑される主体さえ無ければ。
 どっちが先に死の問題を持ち出したか、と云うことは、前の問題よりは重大だ。が、これとてもつきつめれば、何でもない。生活力の旺盛なものに、誰が死の話を持ちかける!
 自分にとって、何より大切な、心を掴むことは、彼が実に真面目な人間として最後まで持ちこたえた、と云うことである。
 足助氏その他に相談しながら血縁の誰にも一言洩さなかったことの意味もよくわかる。とにかく力一杯にやって来、終に身を賭して自己に殉じてしまった心は、私に人生の遊戯でないことを教え、生きて居る自分に死と云うものの絶対で、逆に力を添える。
 自分の一生のうちに、此事は、大きな、大きな、関係を持って居ることだ。
 私は、死ぬ気でかかることの力強さを知った。ひとを死なせてもよいと云う信念の崇高さ、厳さも知った。
 自分とAとのことも、或底力を得た。とにかく、行く処迄、真心を以て行かせよう。彼が死ぬことになるか、自分がどうかなるか、どちらでもよい。信仰を持ち、人生のおろそかでないことを知ってやる丈やって見ようと云う心持がはっきり来たのだ。
 此は、一方から云えば恐ろしいことだ。二人の終りを、此世の終りを見ると同じ厳粛さで見ようと云うのだから。然し、こう云う心持の一方には、その時が来る迄、腰を据えて、自分の道に進むことを可能ならせる。
 Aにも、大きな影響を与えて居ることと思う。
 彼には、一層、感傷的に行ったろうと思う。手紙をよこし、『有島さんのことで深く心を打れました。「自分は出来る丈の力で堪えて来た」と云う言葉は何と悲壮な、心持を充分表した言葉でしょう』と云う文句があった。彼には、堪える丈堪えたのだと云う自己に対する承認とともに万事を放擲した心境が、一種の感傷癖でなつかしく思われたのだろう。
 又、彼のすばしこさで、この事件に対する世人の good will も分ったに違いない。彼の、「自分の決心は定って居る」と云うことに対する自分の merit は、一層、ましたと云うべきであろう。彼のそう云うことに対する不純さ。彼がすねて、其那ことをするのを見るに堪えない自分の心持。一方から云うと、彼が得々として善事をしたと思って居られるのが堪らない憎さ。
 私達の心持も複雑に且つ恐ろしい関係にあると思う。

 私は、有島氏の死が、どうか自分の浮々した、弱さに満ちた魂を守り力づけて、どんどん芸術家としての道に進ませてくれることを祈る。
 私は、心の奥では彼を愛して居たと云ってよいだろう。それ故にこそ、彼より、芸術に於て*で、彼を死なせたものを、我筆に*え、活かし、価値づけて見たい。せめて机に向って居る間、Holy Scribe の力のインボークされるように。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は一字空白。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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