た。
 この武田氏の感服をそれだけの意味でとることは、恐らく筆者自身の希望ではないのだろうとも思う。文学というものに絡めて含蓄されているものもあるだろうけれども、列の心理をいろんな面から考えてゆくと、やっぱり或る対比として心に浮んで来る。何をッという気勢は云わば互の気力の渡り合いで、気力のきついものが、時によっては理非をこえて勝をしめる。列の前期の世相の殺気めいたものだと思う。
 列の感覚というものは、どうやら違うようだ。岸田国士氏は、日本人が列のきびしさを知らず、前へわりこまれてもそれを黙っていることを非難しておられた。これを逆に云えば、列というものは、それが列だからという理由で、見知らない人が見知らない人に向って、列からはみ出してはいけません。勝手に前へ入ってはなりません。一番しまいの方に廻りなさい、と指図し或る意味では指導し世話をするとともに世話をも焼く権利のようなものを互に認めあうものだということになる。各人の生活の実体は列に立ったとき、最も単一な面で均等されるわけである。列の心理の一面には、俺だろうがどこの誰様だろうが、というところがある。そして、何となしほかのひとのことに口出しをするのが面映ゆくなくなるような心理の傾きは興味ふかく注意をひかれる。
 街の風景に列のある時代の空気は、ものの考えかた感じかたにも列のような癖をつけて、専門外のことへも専門外の人間が口出しをして一向我から怪しまなくなって来る。つまり列の自信がのりうつるのだろう。列を何故つくっているかという理由の大きく深い根源をとかく忘れて、列に立つ自信ばかりが自己目的めいて正面にはびこることは、果して誇りとしていいのだろうか。
 パーマネントの問題は一度おこって消えて、最近では女がそんな髪をしてはならないことにきまった。女の便利不便利ということからではなくて、それを見る男の人々の感情へのはばかりが理由となっている。女とすれば、いやな気持をさせたいとは思わないからやめるにちがいない。でも、列というものがその力でどこかをみっしみっしと軋らせはじめると、一番弱々しい箇所に向ってのしかかるのは列の力学とでもいうものだろうか。昔から女は、外で亭主がむしゃくしゃしてきた鬱憤をはらす対象として躾けられて来た。女の生活の眼もいくらかは開いて、そのような列の力学をも、歴史の経てゆく容相の一つとして今は理解してゆく
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