あるテーマは本質的にある表現をもたせるが、それがそれでよい、という文学上の信念は、どこから湧いてくるだろう。今日の社会と文学の現実はいくらかでも、社会的自覚をもって、前進的に生きようと欲し、前進的な文学を生みたい望をもっているものにとって、個人的な、才能主義で解決するようなものではない。文学的情熱の抛物線が大きくゆたかであるためには、ごくしっかりした、ふみごたえのあるスプリング・ボードがいる。
 日本にプロレタリア文学運動がおこって、文学の価値評価の客観的な基準の問題がとりあげられるまで、日本の文芸批評は、ほとんどすべて批評するものの主観による印象批評であった。一人の若い婦人作家が、少しずつ作品をかきはじめたようなとき「臍《へそ》のあかでもほじっているがいい」というふうにいわれた場合、批評と創作活動とのおかれる関係は、だいたい想像される。その時分、すべての作家は里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]がそのころいっていたように批評を無視する態度をとった。本心において批評を気にしないわけではないが、それを気にしていたら、一つの小説もかけないような工合だった。一人一人の批評する人が、
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