だ。
 白い牝牛のわきに腰を下ろして乳をしぼって居る。
 ふせたまつ毛は珍らしく長くソーッと富[#「富」に「(ママ)」の注記]かな乳房を揉んで前にある馬けつにそれをためた。
 随分長い間たってもその男は仲間の誰とも口をきかなかった。
 乳をしぼりあげると男は立ちあがって牛の顔をしずかに撫でて母親の様な口調で、
[#ここから2字下げ]
音なしく、してろよ。
[#ここで字下げ終わり]
と云って暗い納屋に入ってしまった。
 ただそれっきりだけれ共、濁声《だみごえ》を張りあげて欠伸の出た事まで大仰に話す東北の此の小村に住む男達の中で私に一番強い印象をあたえたたった一人の男だった。

     口取りと酢のもの

 今日始めて私はいかにもこの上ないほど不味不味しいそして妙な膳のこしらえ方を見た。
 光線のろくに入らない台所でゴトゴトと料理して居た料理人は朱塗の膳に口取りと酢のものと汁をのせて客室に運んだ。
[#ここから2字下げ]
酢のものは?
あとで口取とのせかえるで――
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事を平気で云った。
 酒の膳に口取をつける事から妙なのに私はそれを食べた時の味も考えた。
 私の頭の中に考えられた味は、ほんとうに不味い極く極く不愉快なものであった。
 何でもない様でありながら、こんな下司な取りあわせをするかと思うとやたらに、かんしゃくが起った。
 貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]人の多い、東北らしい事だ!
 こんな事も思った。

     娘

 娘だと思われる娘を私は此処に来てから一人も見ない。なにがなし淋しい気持がする事だ。
 十五六の娘達は皆大変色が黒い、そして濁った声と、棒の様な手足と疑り深い眼を大方の娘がもって居た。
 名をきいても返事もしないし、笑いかけてもすぐ後を向いてしまった。
 一体この村は若い男も女もあんまり土着のものでは居ない処で、中学に村々から集る若い人達ほか居ないだろうとさえ思われるほどだ。
 若い娘の居ない村は私にとっていかにも居心地がわるかった。
 私は若い力の乏しい村はきらって居るのだ。

     神官

 八十を越して髪も真白になった神官はM氏と云った。
 澄んだ眼と高い額とは神に仕えるにふさわしい崇尊さを顔に浮べて居た。
 白い衣の衿は少しも汚れて居なかった。
 しずかに落ついて話すべき時にのみ話した。
 四十五六で、白衣の衿の黒いのを着て奥歯に金をつめてどら声でよくしゃべる一人をA氏とよんで居た。
 ふざける様にしゃべって下司な笑い様をするのと金ぐさりを巻きつけたのとが神官としての尊さをすっかり落してしまって居た。そして又いかにも小村に荷が勝った様な大神官の神官にふさわしくなかった。
 中学時代からの友達の事や先輩の事をくどくど思いきった声で話して今東京で大きな学校の監督をして居る人の事を話したあとで、
「何! 私だって成ろうと思えばその位にはなれますのさ。
 しかしまあ自分の主義によってこうして居るんですが――
 神主じゃあんまり下さいませんな。」
 斯う云って居る目には生活難を感じながら平身低頭して朝夕神に仕えて居なければならない貧しい神官のあわれさが、しみじみと浮び見えて居た。
 世の中をあきらめながらあきらめきれない苦しさがあった。
 けれ共M氏はかるく微笑みながら盛な男達の話に耳をかたむけて居た。
 その様子はいかにもやさしかった。
 そして又いかにも澄んで居た。
 檜の林にかこまれた大神官の淋しい香りの満ち満ちた神殿に白衣の身を伏せて神を拝すのはこの人でなければならない様にさえ私には思えた。
 私は、五十前の神官に祈られる気はしないし又大きらいだと云う。
 若い――少なくともまだ働ける年の男が油ぎったふとった赤い顔をして神官をして居るのはほんとうにふつりあいな気持の悪いものだ、とも私は感じもし云いもする。



底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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