出すだろう。共稼ぎで働かなければならない婦人も、職場の古くさいものの考えかたや、母性保護施設のないことから、やはり結婚とともに職をしりぞく率が非常に多い。こうして、働く意志のある婦人も、「家庭の主婦」という位置に追いこまれる。その人々は組合をはなれてしまって、最も孤立した、組織を全くはなれた「妻」になってしまう。夫の組合は、家庭手当と家族慰安会のなかで、妻の存在に関係するばかりである。
 そもそも、結婚にこういう現実のくいちがいがある。このことは、離婚が、婦人にとって簡単に「人間の尊厳」を守ることにならないきょうの現実を、私たちの前に切開して示している。「人間的な尊厳」に立って自由に[#「自由に」に傍点]離婚したとしても、それからさきの生活をちゃんと自由に[#「自由に」に傍点]建設してゆく社会条件が婦人にひらかれていない場合、どういうことになるだろう。
 工場に働く婦人にとって、また学校の先生にさえも停年というものがある。婦人がその仕事に熟達し、女としての経験もゆたかになり、成人しかかる子供たちの教育費に多くの費用がいる時期、妻・主婦・母として一番経済的負担の重い四十歳を越すと、停年である。印刷工場などでは、その先そこにつとめようとすれば、未熟練工なみにおとされる。女教員でさえ四十一歳になった女教師は、新しく本任用しない東京都の内規がある。
 離婚を要求する女性の理由のなかには、夫の乱れた生活は、妻としての自分に耐えがたいと同時に子供の教育にもわるいから、ということも珍しくない。離婚するなら子供はすてて出ろ、ということは、無慚な姑や夫が嫁に隠忍を強いるからめてからのおどかしとして云ったことである。自由になった離婚法で、不幸な妻は自分から離婚してよいことになり、その上母と暮したいと主張する三人の子をひきとって、一緒に暮さなければならないというとき、経済上自力でやってゆける自信のある妻は、いまの日本に何人あるだろう。イプセンの「ノラ」は、ノラが人形でなくなろうとして人形の家を出てから先にこそ、女性の社会的問題があった。このことを、きょうの若い婦人で理解しない人はない。うたう雲雀、可愛いい人形から、急に一人の女に転生しようとしたノラの前途に、ふせられていたこの課題は、きょうの日本の勤労女性全般の前に、ノラの時代より、遙かに具体的に矛盾の諸相を呈出している。
 結婚の問題にあたって、私たちを深刻に考えこませる托児所がないということ、炊事、洗濯が社会化された家事になっていないことが、離婚の場合、また切実な問題となり、桎梏となって来る。戦争による未亡人の生活の堂々めぐりのいたましさは、実に多くこういう急所が未解決な今日の社会事情からもたらされている。内職では食べてゆけない。内職では決して食べてゆけないのに、その内職がなければ一層窮迫する程度の賃銀しか支払わないのが、いまの雇うものと雇われるものとの関係である。内職は賃銀のダンピングであるにかかわらず、子もちの母は、正当な働き場所を見つけにくい。
 外国の諸国にも、売春婦はどっさりいる。しかし、私たち日本の女は、夫の戦死されたあと、ママという通称をもった街の女がいて、三人の子供をどこかにのこしたまま、くびり殺されたことを忘れてはならない。今日の日本では子持の街の女も、かなりの高率であるにちがいない。
 結婚と、その分離である離婚が「人間の尊厳」のために男女の間に平等な人権であるならば、私たちは憲法にいわれているすべての人民は働くことが出来る、すべての人民は教育をうけることが出来る、という条項を、徹底的に実現してゆかなければならない。このことこそ、憲法にいわれているとおり、すべての人が良心に立って行動する自由をもっている、その具体的な途である。
 結婚の自由ということを考えるとき、私たちは、今日の日本の働く婦人の現実の条件から目をそらすことが出来ない。離婚の自由をいうとき、わたしたちは、婦人が一本立ちでやってゆける社会条件を建設してゆく努力ぬきには、考えられない。そして、これらすべては、ひっくるめて全日本の働いて生きなければならない数千万の男女の、人民としての生活の条件の改善にかかって来るのである。
 自由ということは、何でもしていい、ということを意味しない。結婚の自由ということは、人間としてのぞんでいる結婚を、本人たち以外のものの意志で邪魔されないでよい、ということであると同時に、いやな結婚を、はたの事情でさせられないでよい、ということである。放埒をしてよい、のではなくて、結婚という形式における売淫は、人間らしくないこととして拒絶する権利があることを意味している。
 結婚の本質をこうしてより人間らしい条件において扱い直そうとするとき、その結婚の清純を守る条件として、離婚の自由がもち出されて来る。主観的に、いやになったからわかれてやる、という態度が離婚の自由の正しい認識でないとともに、客観的には、離婚した母と子との生活保証がされる法律上の条件が必要であると共に、社会的に保証が実現される可能がなければ、離婚の自由[#「自由」に傍点]ということは欺瞞になる。
 憲法や民法で、婦人の立場が男と平等に積極的に書かれる[#「書かれる」に傍点]ようになったというだけでは、殆んど空文にひとしい。社会の実際の日々に、すべての職場に、男女の働いて生きる人の必要を、社会的に、また法的に保証する方法が具体化されたとき、はじめて民主的というに値する。そういう社会をつくるために、男女が力を合わせて、あらゆる努力をし、あらゆる形でたたかってゆくことを、良心の行為として認めたとき、はじめて、民主が徹底するのである。選挙権というものを、女も、失業者も、大臣も、もっているというばかりが、民主ではない。
 婦人の労働条件の改善、確保と、特に子供たちのための社会保障の真剣な検討なしに、結婚や離婚のことは話せない。――出来るだけ個人の経済負担の少い托児所、幼稚園、子供のための病院、療養所。憲法でいっているとおり、九年制義務教育の国家による保障さえ、実際には一つも行われていないとき、いまの社会事情のままでいわれる離婚の自由は、欺瞞的にきこえる。父親である男として、妻を離婚したあと、母を失った子供たちの境遇について心痛しないものはない。より人間らしく生きる道としてひらかれた一つの門から、より多くの売春婦と浮浪児を生み出すことを、わたしたちの社会的良心は肯定しない。この現実のままでは空文に終る結婚と離婚の自由を、真実に社会的責任に裏づけられたものとするために、私たちが試みるすべての生活改善の努力を、阻止しようとしたり、抑えようとしたりする権力をも、私たちは肯定しないのである。[#地付き]〔一九四八年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「女性の歴史」
   1948(昭和23)年4月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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